「人は見た目じゃない」
そう言われることがあります。
人間の価値は顔立ちやスタイルで決まるものではありません。どんな顔をしているか、どんな体型をしているか、身長が高いか低いか、そんなことで人間性まで判断されるべきではないでしょう。
私自身、いわゆる「ルッキズム」がはっきり言って嫌いです。
顔が良い人ばかりが得をしたり、本人にはどうすることもできない生まれつきの骨格や顔のパーツを基準にして、人間の価値まで決めつけたりする風潮には、正直なところ虫唾が走ります。
しかし、そんな私でも「最低限の清潔感は必要だ」と思っています。
これは一見すると矛盾しているように見えるかもしれません。
でも、私は自分自身の経験から、この二つは分けて考えるべきだと思うようになりました。
なぜなら私は、若い頃の「外見なんてほとんど気にしない自分」と、その後「多少なりとも身なりを整えるようになった自分」の両方を経験しているからです。
そして、その前後で、周囲の人の反応が明らかに変わったことを実感しています。
人はどうしても、最初に外見を見る
そもそも、ルッキズムが嫌いだからといって、「人間は外見から何の印象も受けない」と考えるのは、少し無理があると思います。
初対面の人について何も情報を持っていないとき、私たちは相手の外見を見るしかありません。
道ですれ違った人がどんな人なのか、その人の性格も、趣味も、仕事も、家族構成も知りません。
そんな状態で、相手について何らかの印象を持つのは、ごく自然なことです。
「怖そうだな」
「優しそうだな」
「活発そうだな」
「大人しそうだな」
あるいは。
「格好いい」
「可愛い」
「近寄りやすそう」
などと思うこともあるでしょう。
もちろん、そこで抱いた印象が実際の人物像と一致するとは限りません。
むしろ、人間は外見だけでは分からないものです。
ただ、だからといって「外見から何も感じてはいけない」と言うのも現実的ではありません。
ルッキズムという言葉が生まれるはるか以前から、人間は相手の姿形や表情、服装などから、その人物について何らかの先入観を抱いてきたのでしょう。
考えてみれば、道ですれ違う人全員のプロフィールを事前に把握しているほうが、よほど怖い話です。
問題なのは、外見から何らかの印象を持つことそのものではなく、その印象だけを根拠にして相手の人間性や価値まで決めつけてしまうことなのではないでしょうか。
ここは、きちんと分けて考えたほうがいいと思います。
私は25歳くらいまで、身なりなんてほとんど気にしていなかった
私がこのことについて書こうと思ったのには理由があります。
私は「身なりを気にしない側」と「多少なりとも外見を整える側」の両方を経験しているからです。
私が外見を気にするようになったのは、25歳を過ぎた頃でした。
きっかけは、正直よく覚えていません。
多くの人は思春期や学生時代あたりから、自分の髪型や服装、肌などを気にするようになるのかもしれません。
しかし、私は25歳くらいまで、そういうことにほとんど関心がありませんでした。
典型的なオタクファッション。今風の言葉で言えば「チー牛」と呼ばれてしまうような格好だったと思います。
朝起きたら、とりあえず服だけ着替えて、そのまま外出する。
髪が伸びてきたら、目に髪が入るのが嫌だから床屋に行く。
髪型についても「適当に短くしてください」という程度。
スキンケアなんて考えたこともありませんでした。
なぜなら、私は電車オタクだからです。
お金を使うなら、服や化粧品よりもカメラが欲しい。新しいレンズが欲しい。鉄道模型が欲しい。鉄道写真を撮りに行くための交通費に使いたい。
当時の私にとっては、そちらのほうが圧倒的に重要でした。
だから、自分の外見にお金や時間を使うという発想自体がなかったのです。
別に「自分は外見なんて気にしない硬派な人間だ」などという立派な思想があったわけではありません。
単純に、興味がなかった。
それだけです。
身なりを整え始めると、周囲の反応が変わった
ところが25歳を過ぎた頃から、少しずつ変わっていきました。
髪をブラシやヘアアイロンで整えるようになった。
髭剃りで肌が荒れれば、スキンケア用品を使ってケアするようになった。
日焼け止めも塗るようになった。
毎日風呂に入る前や歯磨きをするときには、洗面台の鏡を見る。
「今日の自分の顔はどうだろう」と、意識的に自分の姿を見るようになりました。
とはいっても、別にモデルのような格好を目指したわけではありません。
顔の骨格を変えたわけでもない。鼻を高くしたわけでもない。目を大きくしたわけでもない。身長が伸びたわけでもありません。
単純に、髪を整える。
肌を荒れたままにしない。
髭をきちんと処理する。
日焼け対策をする。
そして、服装も最低限だらしなく見えないようにする。
その程度です。
ところが、しばらくすると、周囲の人の反応が以前とは違っていることに気づきました。
一番分かりやすかったのが、電車の座席です。
ロングシートに座っていると、車内が空いているうちは一人分ずつ間隔を空けて座ることがあります。
そして少し混雑してきても、隣の席が空いているのに、わざわざ人の隣を避けて立ったままでいることもあります。
ところが、身なりを整えるようになってから、私の隣に人が躊躇なく座ってくるようになりました。
もちろん、これだけを根拠に「身なりを整えたから隣に座るようになった」と断定することはできません。
たまたま混雑していただけかもしれません。
しかし、自分自身の感覚として、その変化はかなり印象に残っています。
そして、もう一つ印象的な経験があります。
私は何でも写真に撮る人間なので、道端に咲いていた綺麗な花を、いろいろな角度から撮影していたことがあります。
すると、背後から、「その花、綺麗だねえ!」と、気さくに声をかけられたことがありました。
しかも、若い女性から声をかけられた、というような話ではありません。
作業着を着たおじさんだったり、近所に住んでいそうなおばさんだったり。
学校帰りと思われる小学生から、「おじさん、撮ったやつ見せてー!」と声をかけられたこともありました。
以前の自分には、そんなことはほとんどありませんでした。
もちろん、これもすべてが外見の変化によるものだと断言するつもりはありません。
カメラを持って花を撮影していたから話しかけやすかっただけかもしれません。
それでも、以前と比べて人との間にある「ちょっとした壁」が薄くなったような感覚は確かにありました。
そこで私は思ったのです。
人間は、相手の外見から「この人は安心できそうか」という感覚まで無意識に判断しているのではないか。
「美形であること」と「清潔感があること」は全く違う
ここで、ルッキズムと清潔感を混同してはいけないと思います。
「顔が良いほうがいい」という話ではありません。
「スタイルが良いほうがいい」という話でもありません。
ましてや、生まれつきの顔のパーツや骨格を否定しているわけでもありません。
人間の顔や体型には、生まれ持った部分があります。
身長、骨格、鼻の形、目の形、輪郭など、自分では簡単に変えられないものもたくさんあります。
そこにコンプレックスを抱えて、整形などで変えようとする人を否定するつもりもありません。
自分自身が納得するために美容医療を選択することは、その人自身の自由です。
ただ、少なくとも私は、そこまでして「他人からどう見られるか」を追いかけなくてもいいのではないかと思います。
それよりも、まずできることがあります。
髪を整える。髭を処理する。肌を清潔に保つ。必要ならスキンケアをする。
汗や体臭に気をつける。歯を磨く。服を洗濯する。シワだらけの服をそのまま着ない。
こうしたことは、顔の造形そのものを変える話ではありません。
「自分を美しく見せる」というより、「相手に不快感を与えない状態にする」ための行為です。
私は、ここに清潔感の大きな意味があると思っています。
清潔感は「自分のため」だけではなく「相手への配慮」でもある
清潔感という言葉を聞くと、「モテるため」「異性から好かれるため」という話にされがちです。
もちろん、それも一つの側面ではあるでしょう。
しかし、私はもっと単純なものだと思っています。
清潔感とは、他人に安心してもらうための最低限の配慮でもある。
例えば、初対面の人と話すとき。
髪がボサボサで、服が汚れていて、肌や髭の手入れも全くされていない人と、最低限身なりを整えている人がいたとします。
その二人について何も知らなかったとしても、最初に受ける印象が同じになるとは限りません。
これは、その人の人間性に優劣があるという話ではありません。
前者が悪い人で、後者が良い人だという話でもありません。
ただ、相手から見たときに「安心して接してよさそうだ」と感じる材料が増えるということです。
私自身が身なりを整えるようになって、周囲の人との距離感が少し変わったように感じたのも、そういうことなのではないかと思っています。
だから、私は「もっと美しくなければならない」と言いたいのではありません。
むしろ逆です。
「美しくなくていい。最低限の清潔感さえあれば。」
そう言いたいのです。
ルッキズムは嫌い。でも、現実まで否定するつもりはない
ぶっちゃけオタク・サブカルチャー界隈に身を置く自分のような人間は、見た目に意識を向けるよりも趣味に没頭しているような人と接する機会の方が多いですし、今でもそういった界隈の人といる方が落ち着くのが本音です。
私はルッキズムが心底嫌いです。生まれつきの顔立ちや骨格、体型などを理由に人間の価値まで判断することには、強烈な違和感があります。
そして、「もっと顔が良ければ人生はうまくいく」「この顔だから自分は駄目なんだ」という方向に、人を追い込んでしまう風潮にも疑問があります。
しかし一方で、「人は外見から何も判断しない」という綺麗事を言うつもりもありません。
人間は、初対面の相手について何らかの印象を持ちます。
それは、おそらく完全になくすことのできないものです。
だからこそ、私は「変えられない部分」と「自分で整えられる部分」を分けて考えればいいと思っています。
顔の骨格を気にしすぎなくていい。鼻の形や目の大きさを他人と比較しなくていい。身長や体型だけで自分の価値を決めなくていい。
その一方で、髪を整える。肌を清潔にする。髭を処理する。歯を磨く。風呂に入る。服を清潔にする。
こうしたことは、自分自身のためにも、周囲の人のためにも意味があります。
そして、それは「美人・イケメンになる」という話ではありません。
人と人との間にある、最初の壁を少し低くするためのものです。
私自身、かつては自分の外見にほとんど関心がありませんでした。
その頃の自分と、少しだけ身なりを気にするようになった自分。
両方を経験したからこそ、私はその違いを実感しています。
結局のところ、人間は外見だけでは分かりません。
どんなに格好良くても嫌な人はいるし、どんなに地味な外見でも、とても優しく魅力的な人はいます。
だから私は、これからもルッキズムそのものには反対です。
ただし、「どうせ人は中身だから」と言って、自分の身なりを完全に放置する必要もないと思います。
美しくなる必要はない。
他人と比べる必要もない。
生まれつきの顔や骨格を恥じる必要もない。
でも、髪を整えて、肌を清潔にして、服をきちんと洗って、最低限の身だしなみを整える。
それだけで、人から受ける印象は意外なほど変わることがあります。
そして何より、自分自身が鏡を見るときに、「まあ、今日もこんなもんだな」と思えるくらいでいい。
私は、それくらいの距離感が、外見との付き合い方として一番健全なのではないかと思っています。




