利他は善、利己は悪なのだろうか

インターネットができて、スマートフォンが普及し、人と人のつながりは史上最も簡単になった時代の一方、史上最も希薄になった時代だと思いませんか?

人類の長い歴史では、相互に助け合い、コミュニケーションを自ら取りに行き、家族を形成して繁栄してきました。

今では極端に言えば独りで生きていけますし、積極的にコミュニケーションを取らなくても必要な情報や物はスクリーンから仕入れられます。みだりに家庭を築けば、個人の時間や、資産といったものが自由でなくなってしまうと考える人も増えています。

この記事では、人類においての利他と利己について掘り下げて考えてみたいと思います。

例えば、現代での仕事は、作業自体は「利他」である一方で、その動機は稼ぐために行う「利己」である側面があります。

では、お年寄りに電車の席を譲る行為は? インターネットで自分が持っている知識や情報を共有する作業は? 家族になるパートナーを選択する動機は?

実はあらゆる行動には、「利他性」と「利己性」の両面が共存しあっていて、それが人間が行動をする動機になっているということが発見できます。

本来のコミュニケーションの本質を言語化することで、偏った「0 or 100」の感覚が取り除かれ、再び現実での対人交流シーンが円滑になれるかもしれません。

「誰かのため」と「自分のため」は、意外と分けられない

「利他」と「利己」という言葉を聞くと、私たちはつい正反対のものとして考えてしまいます。

利他とは、自分ではなく他人の利益を考えて行動すること。利己とは、自分自身の利益を優先して行動すること。

例えば、困っている人に手を差し伸べるのは利他的な行動で、自分だけが得をするために行動するのは利己的な行動、と考えることができます。

しかし、私たちの日常を少し細かく見てみると、この二つを完全に分けることは非常に難しいことに気づきます。

例えば、電車の中で高齢者に席を譲ったとします。

これは、一見すると非常に分かりやすい「利他」です。自分が座っている席を相手に譲ることで、自分は立つことになります。相手は座ることができるので、相手にとって利益が生まれます。

ところが、席を譲った人に「あなたは完全に自分の利益を考えませんでしたか?」と聞いたら、どうでしょうか。

「困っている人を助けられてよかった」
「相手に喜んでもらえてうれしかった」
「席を譲れる自分でありたいと思った」

そんな気持ちが少しでもあったとすれば、そこには自分自身の心の満足という「利己」の側面も含まれています。

これは席を譲る行為が「偽善」だという話ではありません。

考えて欲しいのは、人間の行動の動機は「相手のため」か「自分のため」かという二択で簡単には説明できない、ということです。

誰かを助けることで自分もうれしくなる。誰かに喜んでもらうことで、自分も満たされる。

このように、自分の幸福と他人の幸福が重なっていることは、決して珍しいことではありません。

「仕事」は利己と利他が最も分かりやすく混ざっている

現代社会で考えてみると、「仕事」は利他と利己の関係を理解するのに非常に分かりやすい例です。

例えば、パン屋で働く人を考えてみましょう。

パンを作り、店頭に並べ、お客さんに販売する。

この行為だけを見れば、他人に食べ物を提供しているのですから、利他的な活動とも言えます。

しかし、その人が働く理由は「お客さんを喜ばせたい」という気持ちだけではないでしょう。

生活費を稼ぐため。
自分の生活を安定させるため。
将来のためにお金を貯めるため。
家族を養うため。
あるいは、自分の好きな仕事を続けるため。

そこには明らかに「自分のため」という動機があります。

では、この仕事は利己なのでしょうか。それとも利他なのでしょうか。

おそらく、どちらか一方ではありません。

パン屋で働く人が生活のためにお金を稼ぐことは利己的な動機です。しかし、その人が作ったパンを買うことで、お客さんは空腹を満たすことができます。

一方、お客さんがパンを買ってくれるからこそ、パン屋は仕事を続けて収入を得ることができます。

つまり、「自分が利益を得るために、他人に価値を提供する」という関係が成立しています。

これは、現代社会における仕事の基本的な構造でもあります。

医師は患者を治療することで収入を得ます。
運転士は乗客を目的地まで運ぶことで収入を得ます。
農家は食料を生産することで収入を得ます。
エンジニアは便利なサービスを作ることで収入を得ます。

「お金を稼ぐ」という利己的な動機があるからこそ、人は誰かに必要とされるサービスを提供する。

一見すると利己と利他は対立しているようですが、実際の社会では、両者が組み合わさることで経済活動そのものが成り立っています。

インターネットで「知識を共有する」のは誰のためか

インターネット上で知識や情報を発信する行為についても、同じことが言えます。

例えば、自分が経験したことをブログに書いたり、疑問に対する答えをSNSに投稿したり、動画で解説したりする人がいます。

これだけを見ると、「誰かの役に立ちたい」という利他的な行動に見えます。

実際、そうした気持ちから情報を発信している人もいるでしょう。

しかしその動機は、情報を発信することで、自身の人気を得たり、金銭的な報酬が得られたり、次の仕事へつながるためかもしれません。

「誰かに感謝されたい」
「自分の知識を認めてもらいたい」
「多くの人に見てもらいたい」
「自分の存在を知ってもらいたい」
「仕事につなげたい」
「広告収入を得たい」

綺麗事を抜きにすれば、こうした気持ちが投稿という行動を突き動かしている側面は大きいでしょう。これらは、自分自身の利益につながる動機です。

だからといって、その情報によって誰かが助かったという事実まで消えてしまうわけではありません。

例えば、ある人が「この駅からこの場所へ行くには、この電車に乗ればいい」という情報をインターネットに書いたとします。

書いた本人にとっては、アクセス数を増やしたいという目的があったのかもしれません。

しかし、その情報を見た人が迷わず目的地に到着できたのであれば、その瞬間には確かに「他人の役に立つ」という利他的な結果が生まれています。

ここでも、行動の動機と、その行動によって生まれた結果は別々に考えることができます。

「動機は利己的だったが、結果として利他的だった」ということもあれば、その逆もあるでしょう。

家族を作ることにも「自分のため」がある

さらに身近なところでは、恋愛や結婚もそうです。

「愛する人を幸せにしたい」という気持ちは、非常に利他的な感情に見えます。

相手のことを考え、自分より相手を優先することもあるでしょう。

しかし、なぜ私たちは誰かと一緒に暮らしたいと思うのでしょうか。

一緒にいると安心するから。
寂しくないから。
自分を理解してくれる人が欲しいから。
人生を共有できる相手が欲しいから。
将来、家族を作りたいから。

こうした気持ちには、自分自身の幸福を求める「利己」の側面があります。

では、「自分が幸せになりたいから誰かを愛する」ということは、悪いことなのでしょうか。

そうとは限りません。

むしろ、人間関係では「自分も幸せになり、相手にも幸せになってほしい」という状態が自然なのではないでしょうか。

自分を犠牲にして相手だけを幸せにすることが、必ずしも健全な関係とは限りませんし、その逆も然りです。

相手を大切にすることによって自分も幸せになり、自分が大切にされることによって相手も幸せになる。

家族や友人、恋人との関係には、このような相互性があります。

つまり、利他と利己は、必ずしも「どちらかを捨てなければならないもの」ではないのです。

人間は「自分のため」だけでも「他人のため」だけでも動けない

ここまで考えてみると、「利己的な人」と「利他的な人」という単純な分類にも疑問が生まれてきます。

人間は一つの行動をするとき、必ずしも一つだけの動機を持っているわけではありません。

例えば、友人の引っ越しを手伝うとします。

「友人が困っているから助けたい」という気持ちは利他です。

しかし同時に、 次のような気持ちがあるかもしれません。

「友人との関係を大切にしたい」
「いつか自分が困ったときには助けてもらえるかもしれない」
「一緒に作業するのが楽しい」

それらは利己的とも言えます。

だからといって、「見返りを期待しているなら、本当の友情ではない」と切り捨てる必要はありません。

人間関係そのものが、ある程度の相互性によって維持されているからです。

自分ばかりが与え続け、相手から何も返ってこなければ、やがて関係は疲弊してしまうでしょう。

逆に、自分が困ったときには助けてもらい、自分も相手が困ったときには助ける。

この「持ちつ持たれつ」という関係は、利己と利他がうまく共存している状態とも考えられます。

利他と利己は「天秤」ではなく「表裏」なのかもしれない

利他と利己について考えるとき、「自分の利益をどれだけ減らして他人に与えるか」という天秤を想像してしまいがちです。

自分の利益が増えれば利己的。他人への貢献が増えれば利他的。

しかし、現実の人間社会は、そんな「0か100か」みたいに考えられるような単純な概念ではありません。

例えば、誰かに料理を作ってあげる。

相手はおいしい料理を食べられる。
自分は喜んでもらえる。
一緒に食事をする時間も得られる。

一つの行動の中に、自分と相手の利益が同時に存在しています。

子どもを育てることも同じです。

親は多くの時間やお金を子どものために使います。それは非常に利他的な行動です。

しかし同時に、子どもの成長を見ることに喜びを感じたり、家族と暮らすことに幸せを感じたりすることもあります。

「子どものために生きる」という行動の中に、「自分が幸せになる」という側面も存在するのです。

そう考えると、利他と利己は「表裏一体」と表現したほうが近いのかもしれません。

人のために行動することが、自分のためにもなる。

自分のために行動することが、結果として人のためにもなる。

この循環が、人間社会のさまざまな場所で起きています。

「完全に利他的な人」を目指す必要はない

では、私たちはどう生きればよいのでしょうか。

「もっと利他的な人間になろう」と考えること自体は、決して悪いことではありません。

困っている人を助ける。
誰かに親切にする。
自分の知識や経験を他人のために使う。

こうした行動は、社会を少しずつ良くしていきます。

しかし、「自分のために何かをするのは利己的だから悪い」とまで考える必要はないでしょう。

自分の生活を守ること。
自分の時間を大切にすること。
自分が好きなことをすること。
自分が幸せになること。

これらもまた、人間が生きていくうえで自然な欲求です。

むしろ、自分を犠牲にすることばかりを求めてしまえば、誰かを助ける余裕すらなくなってしまいます。

自分自身がある程度満たされているからこそ、他人に手を差し伸べることができる。

そして、自分が誰かの役に立てたという実感が、自分自身の幸福にもつながる。

この循環こそが、人間の利他性と利己性を考えるうえで重要なのではないでしょうか。

利他と利己の間にある「人間らしさ」

私たちは毎日、無数の選択をしています。

仕事をする。
買い物をする。
電車に乗る。
誰かに席を譲る。
家族と食事をする。
SNSに投稿する。
誰かに相談する。
誰かの相談に乗る。

その一つ一つに、「自分のため」と「誰かのため」が入り混じっています。

だからこそ、人間の行動を「これは利他的」「これは利己的」と簡単に分類することはできません。

お金を稼ぐために働くことも、結果として誰かの生活を支えています。

誰かを助けることも、その人から感謝されることで自分の心を満たしているかもしれません。

誰かを愛することも、相手の幸せを願うと同時に、自分自身の幸せを求めています。

人間は、完全に自分だけのために生きることも、完全に他人だけのために生きることも難しい生き物なのではないでしょうか。

「自分が幸せになりたい」という気持ちと、「誰かにも幸せになってほしい」という気持ち。

その二つが重なったところに、人間のさまざまな行動が生まれているのかもしれません。

利己と利他は、どちらか一方を選ぶものではありません。

むしろ、その両方を抱えながら生きていることこそ、人間らしさなのではないでしょうか。

過去記事「物事のバランス」でも、人間社会とバランスについて執筆しています。ぜひご覧ください。