SNSや動画コンテンツのコメント欄で、頻繁に言論バトルが起こるのを目にしませんか?
私は以前、「専門用語で煙に巻くな」という記事で、誰でも分かる言葉選びや表現の大切さについて書きました。
ただし、これはその物事に対してかなり高い解像度で理解している人しかできず、理解している人が難しいことを噛み砕いて説明する手法のような話でした。
詳しく正確に、それでいて理解できるような表現をする場合、どうしても文章は長くなります。それが複雑で難しい事柄なら、なおさらそうなるのです。
一方、コメント欄やSNSには文字数制限があったり、そもそも長い文章を投稿しても読みたがらない傾向があります。
長いコメントに「3行以内にまとめてどうぞ」などという返信がつくような場面もあります。
なぜそうなるのでしょうか。
それは、動画コメントやSNSを見ている人と、私が今書いているような文章コンテンツを読みに来ている人では、そもそも利用する目的が異なるからではないでしょうか。
文章コンテンツをわざわざ開いて読んでくださっている人は、その物事について「なぜなんだろう?」「もっと知りたい」と、掘り下げて考えたいというモチベーションで来ているはずです。
一方で、動画コメントやSNSは、ザーッとスクロールしながら、パッと画面に収まる程度の情報量で理解や共感を得たり、「皆がどう思っているのか」「自分と同じ感想の人はいないか」を探したりするために利用することが多いでしょう。
そして、だからこそ荒れやすいのではないかと思うのです。
この記事では、インターネットで炎上や論争が起こりやすい理由、極端に簡略化された文章の危険性、そして「伝えたい内容によって発信する場所を選ぶ」というコンテンツの適材適所について考えてみます。
弱小ながら発信活動を行っている私なりの「コンテンツの適材適所論」が、他の発信者の方々が思わぬ炎上騒動に巻き込まれることを防ぐ一助になれば幸いです。
短い文章では「結論」しか伝わらない
SNSや動画のコメント欄が荒れやすい理由を考えるうえで、まず注目したいのが「情報量」です。
たとえば、ある出来事について、「私はAだと思います」という一文を書いたとします。
これだけなら非常に簡潔です。
しかし、実際には「なぜAだと思ったのか」という理由があるはずです。
さらに、その理由に至るまでには、それぞれの背景があるはずです。
「こういう事実があった」
「過去にこういう経験をした」
「こういう条件ならAだと思う」
「ただし、Bの場合は例外だと思う」
といった前提や条件が存在するかもしれません。
ところが、短い文章では、こうした情報をすべて盛り込むことができません。
結果として、以下のように意見は割れます。
「Aは正しい」
「Aは間違っている」
「これは良い」
「これは悪い」
「好き」
「嫌い」
といった、結論だけが表に出てきます。
もちろん、短い文章そのものが悪いわけではありません。
「今日は暑いですね」
「この映画は面白かった」
「この商品を買ってよかった」
くらいの話であれば、短文でも十分に意味が伝わります。
問題になるのは、本来は複数の条件や背景を含んでいる複雑な問題まで、短文の形式に押し込めてしまうことです。
たとえば、「この制度は良い制度だ」という一文があったとしても、「誰にとって良いのか」「どんな条件なら良いのか」「どの部分を評価しているのか」までは分かりません。
そこへ別の人が、「いや、それは間違っている」と返信したとしても、今度はその人の「何が間違っていると思うのか」が分かりません。
こうして、言論バトルが始まります。
「Aは良い」
↓
「いや、悪い」
↓
「何も分かっていない」
↓
「そっちこそ分かっていない」
という具合に、どんどん話が単純化されていきます。
最初はそれなりに複雑だったテーマが、いつの間にか「賛成か反対か」「好きか嫌いか」という二択になってしまうのです。
そして、二択になってしまった議論ほど、対立しやすくなります。
「文脈」が削られると、人は相手を誤解する
短文のもう一つの問題は、「文脈」が消えてしまうことです。
人間が何かを発言するときには、その言葉だけではなく、その前後にさまざまな事情があります。
たとえば、「私はこの作品が嫌いです」という文章だけを見れば、単純にその作品そのものを否定しているように見えるでしょう。
しかし、本当は、「作品としては好きなのですが、映像表現のこの部分だけは苦手なので、個人的にはあまり楽しめませんでした」という意味だったのかもしれません。
ところがSNSでは、その長い説明を省いて、「この作品は嫌い」だけが切り取られてしまうことがあります。
一画面に収めるために、敢えて簡略化して書くしかなかったのかもしれません。
すると、それを見た別の人は、こう反論してきます。
「この作品の価値を理解していない」
「好きな人を馬鹿にしている」
と受け取るかもしれません。
しかし、発言した本人には、そんな意図はなかったかもしれない。
つまり、文章が短くなればなるほど、読み手が不足している情報を自分で補わなければならなくなるのです。
そして、その補完が正しいとは限りません。
むしろ、人間は自分の経験や価値観をもとに相手の言葉を解釈します。
「この人はこういう意味で言っているに違いない」と、それぞれが勝手に補完してしまうわけです。
これがインターネット上の言い争いを複雑にする大きな要因ではないでしょうか。
現実の会話であれば、「いや、そういう意味じゃなくて」と、その場で説明できます。
相手の表情や声のトーンから、「怒っているわけではない」「冗談を言っている」と判断することもできます。
しかし、文字だけのコミュニケーションでは、それができません。
一文だけが独立して表示され、その一文だけを根拠に相手の意図まで判断することになります。
そして誤解したまま反論し、その反論を見た本人もまた誤解する。
こうして、本来なら存在しなかった対立が生まれてしまいます。
なぜ現実では言わないような言葉まで書けてしまうのか
インターネット上では、現実の対面コミュニケーションでは考えられないような強い言葉が飛び交うことがあります。
これにはさまざまな要因がありますが、「相手の人間性が見えにくい」ということも関係しているでしょう。
目の前に人がいれば、その人の表情や声、反応を見ながら言葉を選びます。
自分の発言によって相手が傷ついた様子を見れば、「少し言い過ぎたかな」と考えることもできます。
ところが、画面の向こう側にいる人には、その反応が見えません。
「このコメントを書いた人」が、実際にはどんな人なのかも分からない。
家族がいるのか、仕事をしているのか、どんな人生を送ってきたのか。
そうした具体的な人間像が見えないまま、画面に表示された数文字だけを相手にしてしまいます。
すると、いつの間にか「人」に対して話しているのではなく、「意見」に対して攻撃しているような感覚になってしまう。
さらに短文では、相手の文章もまた極端に見えます。
本当は、「この点については賛成ですが、この条件については反対です」という考えだったとしても、短く書けば、「反対です」だけになってしまう。
それを読んだ相手も、「じゃあ全部否定しているんですね」と受け取ってしまう。
こうして、双方が実際よりも極端な主張をしているように見えてしまいます。
そして、その極端な主張に対して、さらに極端な言葉で反論する。
これを繰り返していけば、言論バトルになるのも不思議ではありません。
コンテンツには「適材適所」がある
では、こうした問題を避けるにはどうすればいいのでしょうか。
私は、「すべてをSNSで伝えようとしない」ことが一つの答えになるのではないかと思っています。時にはコメント欄をあらかじめ閉じておく事も必要だと思います。
同じ情報を発信するとしても、媒体にはそれぞれ得意分野があります。
たとえばSNSは、短い情報を素早く届けたり、話題を共有したり、反応を集めたりすることに向いています。
「新しい記事を公開しました」
「こんな写真を撮りました」
「今日はこんな出来事がありました」
こういった情報なら、短文でも十分に成立します。
一方、複雑なテーマを説明したいのであれば、ブログや長文記事のほうが向いています。
背景を説明し、前提を整理し、具体例を出し、例外について触れ、最後に結論を示す。
こうした説明には、それなりの文字数が必要だからです。
動画にも動画の強みがあります。
文章では伝えにくい「動き」「音」「表情」「現場の雰囲気」などは、動画で見せたほうが圧倒的に伝わりやすいことがあります。
反対に、細かな条件を整理したり、後から必要な部分を読み返したりするのであれば、文章のほうが便利な場合があります。
ラジオや音声配信なら、文章ほど画面を凝視する必要がなく、話し手の声のトーンや間も含めて伝えられます。
つまり、ブログが優れている、SNSが優れている、動画が優れている、という話ではありません。
それぞれに向いている情報の形が違うのです。
これは道具にたとえると分かりやすいでしょう。
釘を打つなら金槌を使います。
ネジを締めるならドライバーを使います。
「どちらの工具が優れているか」という話ではなく、「何をしたいのか」によって使う道具を選ぶわけです。
コンテンツも同じではないでしょうか。
「炎上させない」ためには、伝える場所を選ぶ
発信者側から考えると、この「適材適所」は炎上対策としても重要だと思います。
たとえば、非常に複雑なテーマについて自分の考えを伝えたいとします。
その内容を、SNSの一投稿だけですべて説明しようとすれば、どうしても説明不足になります。
そこで、「詳しい理由はこちらの記事にまとめました」と長文コンテンツへ誘導する方法があります。
SNSでは興味を持ってもらうところまで。詳しい説明はブログで。動画では映像を見てもらい、補足情報は概要欄や記事で説明する。
このように役割を分担させれば、一つの媒体にすべてを詰め込む必要がなくなります。
もちろん、それでも誤解や反論が発生することはあります。
どれだけ丁寧に説明しても、すべての人に同じように理解してもらえるわけではありません。
また、炎上には内容そのものだけでなく、タイミングや拡散のされ方、受け手の関心、コミュニティの文化など、さまざまな要素が関係します。
したがって、「この方法なら絶対に炎上しない」というものでもありません。
それでも、発信者自身が「この話は短文では伝わらない」と理解しておくことには意味があります。
そして、短文で伝わらない内容を無理やり短文化してしまうより、「これは長く説明するべき話だ」と判断して、適した場所へ移すほうが、誤解を生む可能性を減らせるでしょう。
「何を言うか」だけでなく「どこで言うか」を考える
インターネットでは、「何を発信するか」ばかりが注目されがちです。
しかし、私は「どこで発信するか」も同じくらい重要なのではないかと思います。
同じ内容でも、ブログ記事として読めば納得できるものが、SNSの一文だけでは誤解されることがあります。
動画で見ると非常に分かりやすいものが、文章だけでは伝わりにくいこともあります。
逆に、動画では流れてしまう細かな条件や数字を、文章ならじっくり確認できることもあります。
つまり、発信する内容には、それぞれ適した「器」があるのです。
そして、その器に収まらないほど複雑なものを無理やり押し込めようとすれば、情報がこぼれ落ちます。
こぼれ落ちた情報が「前提」だったり「条件」だったり「発言した理由」だったりすれば、受け手は残された断片だけを見て判断するしかありません。
その結果、誤解が生まれ、反論が生まれ、さらに反論への反論が生まれる。
そして気がつけば、最初に発信した人が意図していなかったところで、言論バトルが始まっている。
インターネット上の炎上を完全になくすことは難しいでしょう。
しかし、発信者側が「この内容を、この媒体で、この文字数で伝えることは本当に適切なのか」と一度考えるだけでも、避けられるトラブルはあるはずです。
SNSにはSNSの役割があります。
動画には動画の役割があります。
ブログにはブログの役割があり、音声には音声の役割があります。
短く伝えるべきことを長々と説明する必要はありません。
逆に、長く説明しなければ正確に伝わらないことを、無理に一言で言い切る必要もありません。
大切なのは、「短いほうが偉い」「簡潔なほうが優れている」と考えることではなく、伝えたい情報に合わせて、最適な発信手段を選ぶことなのではないでしょうか。
発信者が自分の伝えたいことを正しく伝えるために媒体を選ぶ。
受け手もまた、自分が知りたい情報の深さに応じて媒体を選ぶ。
感情的にコメントするのではなく、自らの意図が短文で伝わらなそうだと判断した時は、意図的にコメントを控えることも防衛手段の一つでしょう。
そんな使い分けができれば、インターネット上のコミュニケーションは、もう少し穏やかで、そして有意義なものになるのではないかと思います。
「何を言うか」だけではなく、「どこで言うか」。
これから何かを発信しようとするときには、この二つをセットで考えてみる。
それだけでも、意図しない誤解や、意味のない炎上に巻き込まれる可能性を減らすための、ひとつの予防策になるのではないでしょうか。




