ハラスメント認定の境界線を探る

ハラスメントは決して許されません。しかし、最近は特に「え、これもハラスメント!?」みたいな概念がどんどん増殖しています。

最初の頃、例えば性的な嫌がらせを「セクハラ」、上の立場から逆らえないからと圧力をかける「パワハラ」などが起点でした。これらはまだわかります。別に名前をつけなくても、一言で言えば「嫌がらせ」として昔から嫌われていた行為でした。

ところが今ではどうでしょう。ちょっとでも不快だったり、許せなかったり、気持ち悪いと感じれば何でもハラスメント認定をできてしまいます。

好きじゃない人からの告白は「コクハラ」、ちょっと汗臭いと「スメハラ」、お酒を勧めれば「アルハラ」。

いつか、気に入らない人間が生きているだけで「イキハラ」とか言い出しかねない、ハラスメントだと訴えている方がむしろハラスメントをしているのではないかと思えるくらいに、この概念のエスカレーションが進んでいます。

そして、この傾向が社会の息苦しさ、窮屈さ、行き詰まり感を生み出している一つの要因だと私は思います。

ちょっと何か話しても、「私が不快、だからこれはハラスメントなんだ」と言われてしまえば、もう何も言えませんし、何も表現すらできなくなります。

ちょっとしたジョークも過敏に反応して許されない社会では、人間関係もどんどんつまらないものになります。テレビ番組や漫画の表現に対して、コンプライアンスが厳しくなればなるほどつまらない内容しか流せなくなるのと同じような流れです。

若い人でも過去の映像や文献を見て、「昭和の頃はおおらかで良かったんだろうな」なんて気持ちを抱く人もいるそうです。それは良い場面を切り取った部分を見ているだけで、昔は昔で問題は山積みでした。

昭和の頃も平成の頃も、「こういう表現は教育に良くない!」とか、「馬鹿野郎!」と人を平気で殴りつけたり、「男なら我慢しろ、女らしくしろ」など、今では考えられないような荒い社会だったことも伝えていかなければなりません。

それでも、人間関係や暮らしぶり、人々の活き活きとした様子は、今より活気に満ちた素敵な世界だったのは事実かもしれません。それは、表現できることの幅に、まだ隙間があったからこそだと思います。

そもそもテレビ番組など表現として行われているフィクションと、現実のコミュニケーションは全く別世界だということを前提に考えられない大人が増えたのが理由だと思います。

かつてない勢いで少子化し、男女間は分断し、人間関係に疲弊して引きこもりが増え続け、経済はどんどん縮小してゆく。

これらは個別の問題ではなく、一本の線で繋がっているのだと思います。

この記事では、ハラスメントの境界線を考えてみたいと思います。社会秩序を守るための「ハラスメント」と、私が不快だから「ハラスメント」とすることのラインはどこにあるのか、深掘りして考えてみたいと思います。

ハラスメントという言葉が必要になった理由

まず最初に確認しておきたいのは、ハラスメントという概念そのものが悪いわけではないということです。

むしろ、これまで「我慢するしかない」とされてきた問題を言語化したことには、大きな意味があります。

職場の上司が部下に対して、立場の強さを利用して無理難題を押しつける。

断っているのに性的な言動を繰り返す。

相手が逆らえないことを分かったうえで、人格を否定するような言葉を浴びせ続ける。

こうした行為は、単なる「人間関係の好き嫌い」ではありません。

そこには、力関係があります。

上司と部下、教師と生徒、雇用する側とされる側、あるいは集団と個人など、簡単には拒否できない関係の中で、一方的に苦痛を与えられる状況があります。

昔なら「仕事なんだから我慢しろ」「それくらい普通だ」「嫌なら辞めればいい」で片付けられていたものが、今では「それは許される行為なのか」と社会全体で考えられるようになりました。

これは社会が成熟した部分でもあるでしょう。

特に、相手が拒否しにくい立場にいることを利用して、自分の要求を押し通す行為は、「冗談だった」「昔は普通だった」という一言で正当化できるものではありません。

ここを曖昧にしてはいけません。

ハラスメントという言葉が広がった背景には、これまで見過ごされてきた被害を「被害として認識できるようにする」という役割があったからです。

つまり、本来のハラスメント対策は、人間関係を窮屈にするためのものではありません。

むしろ、立場の弱い人が一方的に我慢させられる社会を変え、人間関係の中に最低限の安全を確保するためのものだったはずです。

「不快だった」と「ハラスメント」は同じではない

では、どこからが行き過ぎなのでしょうか。

私は、その一つの境界線が「不快だった」という感情だけで相手をハラスメント加害者と決めつけてしまうことにあると思います。

もちろん、不快に感じたという事実は無視してはいけません。

誰かの言葉によって傷ついたのであれば、「自分は傷ついた」と伝えることには意味があります。

しかし、「私は不快に感じた」という事実と、「だから相手はハラスメントをした」という判断は、本来は別の話です。

例えば、職場で上司から仕事のミスを指摘されたとします。

本人にとっては耳の痛い話ですし、場合によっては非常に不快でしょう。

しかし、ミスを指摘されて不快だったというだけで、それを直ちにハラスメントと呼ぶなら、職場では誰も部下を指導できなくなります。

逆に、人格を否定したり、必要以上に大声で怒鳴ったり、皆の前で繰り返し侮辱したりするのであれば、話は変わってきます。

ここで重要なのは「不快だったかどうか」だけではなく、何が行われたのか、どのような関係性だったのか、必要性があったのか、程度や頻度はどうだったのか、相手が拒否した後も続けたのかという具体的な状況です。

人間が社会生活を送っていれば、どうしても誰かを不快にさせることがあります。

意見が食い違うこともあります。

注意されることもあります。

断られることもあります。

自分の思い通りにならないこともあります。

それらまで全て「ハラスメント」にしてしまえば、今度は社会の中から「他人と違う意見を言う自由」や「相手に異議を唱える自由」が失われてしまいます。

人間関係には、ある程度の摩擦がつきものです。

大切なのは、摩擦を完全になくすことではなく、相手を一人の人間として尊重しながら、必要な摩擦まで排除しないことなのではないでしょうか。

「嫌がらせ」と「嫌なことを言われる」は違う

ここをさらに突き詰めると、ハラスメント問題には「相手に嫌な思いをさせること」と「相手を傷つける目的で嫌なことをすること」の違いもあります。

例えば、友人から「最近ちょっと太ったんじゃない?」と言われたとします。

人によっては笑って済ませられるでしょうし、人によっては非常に傷つくでしょう。

同じ言葉でも、受け止め方は人によって違います。

だからといって、言葉を発した瞬間に「体型について言及したのだからハラスメントだ」と決めつけてしまえば、人間同士の会話は成立しません。

一方で、相手が嫌がっていることを明確に伝えたにもかかわらず、何度も同じことを言い続けるのであれば、単なる一回の失言とは事情が変わります。

つまり、「何を言ったのか」だけではなく、「その後どうしたのか」も重要なのです。

一度の失言であれば、謝ることで関係を修復できるかもしれません。

しかし、相手が「やめてください」と伝えているのに、それを面白がって繰り返す。

相手が困っている姿を見て、さらに追い込む。

立場の弱さにつけ込んで逃げられない状況にする。

こうなれば、単なる「価値観の違い」では済まなくなります。

ここには、相手を尊重する意思があるかどうかという大きな違いがあります。

ハラスメントを考えるうえで、「相手が不快だったか」は重要な情報です。

しかし、それだけを唯一の基準にしてしまうと、今度は「不快」という感情そのものが他人を攻撃する道具になってしまいます。

「私は嫌だった」という言葉は、自分の感情を伝えるためには使えます。

しかし、「私は嫌だった。だからあなたが悪い。だからあなたは何も言ってはいけない」まで進んでしまえば、それは別の問題です。

ハラスメントを恐れすぎる社会も、人間関係を壊してしまう

現在では、何かを発言するときに「これはハラスメントにならないだろうか」と考える場面が増えました。

これは、一定の範囲では良いことです。

自分の立場を利用して相手を傷つけていないか。

相手が断りにくい状況を利用していないか。

必要以上に相手を追い詰めていないか。

そう考えることで、無意識のうちに他人を傷つけてしまうことを防げるからです。

しかし、その意識が過剰になると、別の問題が起きます。

「何を言ってもハラスメントになるかもしれない」

「何か誘って断られたら問題になるかもしれない」

「注意したらパワハラと言われるかもしれない」

「冗談を言ったら問題になるかもしれない」

そんな不安ばかりが先行すると、人は次第に他人と関わることそのものを避けるようになります。

そして、人間関係が希薄になっていきます。

これは非常に皮肉な話です。

本来、ハラスメントを減らす目的は、人間が安心して他人と関われる社会を作ることだったはずです。

ところが、「傷つけないこと」を徹底的に追求するあまり、「傷つく可能性のあるコミュニケーションそのもの」を避けるようになれば、今度は人と人との接点が失われてしまいます。

人間関係には、失敗があります。

言い過ぎることもあります。

勘違いもあります。

気まずくなることもあります。

それでも、「今の言い方は悪かった」と謝ったり、「ちょっと傷ついた」と伝えたりしながら関係を修復していく。

そういう経験を積むことによって、人間関係の距離感も身についていくのではないでしょうか。

何か問題が起きるたびに第三者へ訴えて、相手を「加害者」という一つの言葉で処理してしまえば、この修復の機会そのものが失われてしまいます。

もちろん、深刻な被害については別です。

暴力、脅迫、性的な強要、継続的な人格攻撃など、相手の意思を無視して一方的に苦痛を与える行為まで「人間関係の摩擦」として我慢する必要はありません。

問題なのは、そのような深刻な行為と、単なる「気に入らない」「不快だった」「意見が合わなかった」という出来事まで、全て同じ言葉で扱ってしまうことなのです。

「ハラスメントのない社会」ではなく「互いに修復できる社会」へ

ハラスメントについて考えるとき、私たちは「ハラスメントをゼロにする」という目標だけを見るのではなく、その先にどんな社会を作りたいのかを考える必要があるのではないでしょうか。

誰も他人を傷つけてはいけない。

これは当然です。

しかし同時に、誰も他人を不快にさせてはいけない、という社会を作ることは不可能です。

人間は一人ひとり違います。

好きなものも違えば、嫌いなものも違います。

冗談の感覚も違います。

言葉の受け止め方も違います。

同じ発言を聞いて、ある人は笑い、別の人は腹を立てることだってあります。

だからこそ、「不快」という感情を尊重しながらも、それをそのまま社会的な禁止事項に変換しない慎重さが必要なのだと思います。

重要なのは、「不快に感じる権利」と「相手を罰する権利」を混同しないことです。

嫌なことを嫌だと言う自由はあっていい。

しかし、相手にも説明する自由、謝る自由、考えを改める自由、そして場合によっては「自分には悪意がなかった」と説明する自由があります。

そのやり取りまで含めて、人間関係なのではないでしょうか。

昔の社会には、確かに今では到底許されないような乱暴さがありました。

立場の弱い人が声を上げられず、女性だから、若いから、部下だからという理由で理不尽な扱いを受けることもありました。

そこへ戻る必要はありません。

しかし、だからといって今度は反対側へ振り切れて、「誰も傷つけないために、誰も何も言わない」という社会になってしまっても困ります。

人間が生きていく以上、摩擦はなくなりません。

意見の対立もなくなりません。

失言もなくなりません。

恋愛の失敗も、仕事上の注意も、友人同士の冗談も、全てを完全に安全なものにすることなどできないのです。

だから必要なのは、ハラスメントという言葉を増やし続けて、人間関係からあらゆる不快感を排除することではないでしょう。

本当に守らなければならない人を守りながら、同時に、人間が人間らしく話し、笑い、失敗し、謝り、関係を修復できる余白も残しておくこと。

その「余白」こそが、人間社会には必要なのだと思います。

ハラスメントをなくすことと、人間関係の摩擦をなくすことは同じではありません。

守るべき境界線は、もっと慎重に見極める必要があります。

「私は不快だった」という感情を尊重すること。

そして同時に、「不快だった」という理由だけで相手の存在や発言そのものを否定しないこと。

その両方を成立させることができて初めて、私たちは本当の意味で、他人を尊重できる社会に近づいていくのではないでしょうか。