HLHS2026A
西暦2042年の日本。
二十年以上にわたり拡張を続けてきた通信インフラは、ついに限界点に達しようとしていた。老朽化した海底ケーブル、逼迫するデータセンター、慢性的な電力不足。かつて「クラウド」と呼ばれたものは、いまや巨大な冷却塔と発電設備を抱える現実の工業地帯として、各地の海岸線に重く横たわっている。
政府は長らく「増設」で乗り切ってきた。だが半導体不足と資源価格の高騰、そして異常気象による電力供給の不安定化が重なり、拡張路線は限界を迎える。
総合的な通信管理政策の策定が、政府主導でとうとう動き出した。
発表された新法の名は、通信帯域保全法。名目は明確だった。
「未来世代のために、通信資源を持続可能に管理する」
法の柱は三つ。
・個人アカウントへの一日あたり送信容量上限
・コンテンツ優先度スコア制度の導入
・低優先度データの自動アーカイブ化
優先度スコアは、AIが算出する。教育性、公共性、緊急性、経済効果などの指標をもとに、投稿の「社会的価値」を数値化する仕組みだった。
娯楽や私的な交流は、即座に禁止されるわけではない。だが、帯域逼迫時には自動的に後回しにされる。
政府広報は繰り返す。
「これは検閲ではない。資源管理である。」
ニュースでは、巨大データセンターの映像が流れる。冷却水の蒸気が白く立ちのぼり、夜の空を照らす。
世界的IT企業も声明を出した。代表的なクラウド事業者であるG-netは、「持続可能な通信エコシステム構築のため、各国政府と協調する」と発表する。
インターネットは依然として存在している。検索もできる。動画も見られる。メッセージも送れる。
だが、かつてのように、誰もが無制限に、思いつきのまま発信できる世界ではなくなった。
再生数の少ない動画は一定期間後に消え、閲覧のないブログは圧縮保存され、AIによって「価値が低い」と判定されたデータは、静かに冷たい『倉庫』へ送られる。
タイムラインは以前より整然としている。炎上は減った。無数の雑音も減った。
その代わり、放課後に友達同士で共有していた他愛ない動画や、深夜に投稿した意味のない一文は、次第に居場所を失っていく。
人々はまだ自由だと言われている。ただし、その自由には、数値化された重みが与えられた。世界は壊れていない。だが、少しだけ静かになった。
それが、この物語の始まりである。
ミームの放課後
春の匂いが、まだ少し冷たい風に混ざっていた。
午後四時。授業が終わり、教室は半分だけ自由になる。部活に向かう足音と、残ってだらだらする者たちの笑い声が、入り混じる時間。
三田綾芽は、自分の机に肘をつきながらスマートフォンを傾けていた。
「ちょっとこれ見て!今朝から回ってるやつ。」
沙耶が身を乗り出す。画面の中では、意味不明な早口のナレーションと、猫の画像が高速で切り替わっている。内容はない。オチもない。なのに妙に中毒性がある。
綾芽は吹き出す。
「なにこれ、ほんと意味わかんない。」
「そこがいいんじゃん。」
「マジ草ーw」
恭平も横から覗き込む。
「三日で消えるな、これw」
「いや今日でしょw」
笑いがこぼれる。
それは、世界を変える議論ではない。社会を良くする主張でもない。ただ、その瞬間を共有するためだけのデータ。綾芽にとってネットは、空気みたいなものだった。
朝起きて通知を確認し、通学中に短い動画を眺め、放課後にはミームを交換し、夜は誰かのつぶやきに「いいね」を押す。
教室にいない時間も、教室は続いている。タイムラインは第二の黒板で、コメント欄は放課後の延長だった。
沙耶が言う。
「そういえばさ、容量制限どうする?」
綾芽は一瞬、笑いを止めた。
「ああ・・・、来月からのやつ?」
「うん。通信帯域保全法。」
教室の後ろで誰かが、「やばくない?」と小さく言う。
綾芽のスマートフォンにも、今朝通知が来ていた。
【お知らせ】4月1日より、個人アカウントの一日あたりアップロード容量を制限します。
20MB。数字は具体的だった。動画なら数十秒で終わる。高画質なら数秒だ。
「動画ほぼ無理じゃん!」
沙耶が唇を尖らせる。
「ミーム死ぬね。」
恭平は肩をすくめる。
「まあ仕方ないって。インフラ限界らしいし。ニュース見てないの?」
綾芽は見ていた。老朽化した海底ケーブルの映像。蒸気を上げる巨大なデータセンター。専門家の解説。
『このままトラフィックが増加すれば、通信障害が常態化します。』
正しいことを言っているのだろう。誰も悪くないのだろう。
それでも。
「でもさ・・・。」
綾芽はぽつりと呟く。
「私たちの動画って、そんなに悪いのかな?」
誰もすぐには答えなかった。
窓の外では、運動部の掛け声が響く。風がカーテンを揺らす。
綾芽は、自分のアカウントを開く。
体育祭の動画。変顔の写真。夜中に送った意味不明な一文。
再生数は多くない。バズったこともない。それでも、それは確かに自分の時間だった。
通知欄に、新しい表示が追加されている。
【あなたの通信優先度スコアは試験運用中です】
タップすると、画面に灰色の円グラフが現れる。
教育性:低
公共性:低
娯楽性:高
情報価値:低
総合評価:C-
綾芽は、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
採点されている。
テストの点数とは違う。人格でもない。でも、何かが数値に変換された感覚。
沙耶が覗き込む。
「私、Dだった。」
笑おうとするが、うまく笑えない。
恭平は言う。
「俺、Bだって。ニュース系シェアしてるからかな?」
悪気はない。でも、空気が少しだけずれる。
同じ教室。同じ放課後。同じミームを見て笑っていたのに。
綾芽はスマートフォンを伏せる。
窓の外の空は、春らしく淡い青だった。
帯域が足りない。資源は有限。それはきっと本当だ。
けれど。
私たちの笑い声も、どこかで「低優先度」に分類されるのだろうか。放課後の教室に、少し長い沈黙が落ちる。やがて沙耶が言う。
「まあ、今のうちにいっぱい上げとこ!」
冗談めかしているけれど、その声は少し急いでいる。
綾芽は再びスマートフォンを手に取る。
動画を撮る。三人で、意味のないポーズを決める。
「はい、せーの。」
シャッター音。送信ボタンの上に、小さな表示が出る。
【推定優先度:低】
綾芽は一瞬だけ迷う。それでも、押した。データは電波に変わり、見えないケーブルを通って、どこかの冷たいサーバーへ届く。
その瞬間、綾芽はまだ知らない。この「当たり前の送信」が、もうすぐ特別な行為になることを。
教室の外で、桜の花びらが一枚、風に舞った。
見えない渋滞
夜のダイニングは、蛍光灯の光で少し白く浮いていた。
テレビではニュースが流れている。海の底を進む無人探査機の映像。黒い水の中、太いケーブルがゆっくりと画面を横切る。
『老朽化が進む太平洋海底ケーブル。現在、更新工事は資材不足により遅れています——』
綾芽は箸を止めた。画面の隅に、小さく「通信帯域保全法 特集」と表示されている。
父、三田智之は、無言で味噌汁をすすっていた。
綾芽は、少し迷ってから口を開く。
「お父さんって、ああいうのやってるんだよね?」
父は頷く。
「保守チームの一人だよ。あれが切れたら、日本の通信の三割は止まる。」
三割。
綾芽の頭の中で、数字が形にならないまま浮かぶ。
「そんなに!?」
「動画一本見るのに、どれだけデータが流れてると思う?」
父はリモコンで音量を少し上げた。ニュースキャスターが説明している。
『国内トラフィックはこの十年で約六倍に増加。特に高精細動画と短尺動画の爆発的増加が要因と見られています』
画面には、夜空に光る巨大な建物群が映る。低く唸るような音。白い蒸気。
『データセンターの電力消費は国家単位に匹敵し——』
綾芽は、あの蒸気の向こうに自分の動画がある気がした。
体育祭の短いクリップ。意味のないダンス。友達との変顔。
父が言う。
「もう増やせばいいって段階じゃないんだ。半導体も冷却設備も、電力も、水も限界がある。」
言葉は静かだった。怒っているわけでも、押しつけるわけでもない。
ただ、現実を述べている。
「でもさ。」
綾芽は視線をテレビから外さないまま言う。
「そんなに、みんなの投稿って重いの?」
父は少し考える。
「一つ一つは軽いよ。問題は数だ。何億人が、毎日、何回も送る。」
何億人。綾芽は想像する。
世界中の誰かが、今日も猫の動画を上げ、踊りを撮り、つぶやきを投稿している。それらが、目に見えない川のように流れ、どこかで詰まり始めている。
ニュースは続く。
『政府は、通信資源を次世代へ引き継ぐための措置と説明しています』
綾芽は呟く。
「検閲じゃないって言ってた。」
父は頷く。
「検閲じゃない。優先順位だ。救急車が渋滞で止まらないようにするのと同じだ。」
救急車。
綾芽は少し黙る。災害情報。医療データ。確かに、それは止まってはいけない。
でも。
「じゃあ、私たちのは?」
父は答えない。
代わりに、テレビ画面にグラフが映る。
ピークタイム。帯域使用率99%。赤いラインが、上限ぎりぎりを震えている。
綾芽はその線を見つめる。
見えない道路。見えない車列。見えない渋滞。自分の動画も、その列のどこかにいるのだろうか。
食事が終わり、綾芽は自室に戻る。ベッドに寝転び、スマートフォンを開く。
タイムラインの読み込みが、少しだけ遅い。気のせいかもしれない。
通知が一つ。
【試験運用通知:混雑時間帯のため、一部コンテンツの表示を遅延しています】
綾芽は、画面を指で何度も更新する。くるくる回る読み込みアイコン。まるで信号待ちのようだ。
沙耶からメッセージが届く。
「今日の動画、もう表示されないんだけど?」
綾芽も確認する。
アップロードは成功している。でも再生数はほとんど増えていない。
小さな表示が出る。
[現在、低優先度コンテンツは帯域調整中です]
帯域調整中。それは削除ではない。禁止でもない。ただ、後回し。
綾芽は画面を見つめながら思う。私たちは、いま渋滞の最後尾にいるのかもしれない。
窓の外では、夜の住宅街が静かに眠っている。電線が月明かりに細く光る。あの線のどこかを、自分のデータが流れている。流れているはずなのに、どこかで止まり、順番を待っている。
見えない渋滞。綾芽はスマートフォンを胸の上に置く。
もし、本当に限界なら。もし、誰かが減らさなければならないのなら。
それでも。
私たちの笑いは、本当に後回しでいいのだろうか。
読み込みアイコンが、ようやく止まる。沙耶からの返信が表示される。
「まあいっか。明日また笑えれば!」
綾芽は小さく息を吐く。渋滞の中でも、まだ繋がっている。けれど、その道が細くなっていることを、彼女ははっきりと感じ始めていた。
優先度スコア
四月一日。エイプリルフールの冗談であってほしい、と綾芽は思った。
朝のホームルーム。担任はいつもより少し真面目な顔で言う。
「今日から通信帯域保全法が本格施行されます。校内Wi-Fiも制限対象です。授業に関係のない動画投稿などは控えるように。」
教室のあちこちで、小さなため息がこぼれる。綾芽は机の下でスマートフォンを開いた。画面の上部に、新しいバーが表示されている。
【本日の残り送信容量:18.6MB】
【通信優先度スコア:C-(標準以下)】
その下に、小さな解説リンク。
【優先度スコアは、公共性・教育性・緊急性・経済寄与度等を総合的にAIが評価します】
AI。顔のない採点者。
綾芽は試しに、昨夜撮った短い動画をアップロード画面に載せてみる。三人でふざけた、三秒の変顔動画。
解析中、と表示が出る。数秒後。
【推定優先度:低】
混雑時は表示が遅延する可能性があります
まるで、静かに肩を叩かれた気分だった。
「ごめんね、あなたは後ろへ」と。沙耶が小声で言う。
「私、D+だった。」
「+ついてるだけマシじゃん。」
綾芽は笑おうとする。恭平が振り向く。
「俺、A−になった!」
教室が少しざわつく。
「なんで?」
「この前のレポート、ネットに上げたからかな。環境問題のやつ。」
悪気はない。むしろ照れたように言っている。でも、綾芽の胸のどこかが、きゅっと縮む。
同じ教室にいるのに。同じ年齢で、同じ制服を着ているのに。数字が、見えない段差をつくる。
昼休み、綾芽は一人で中庭に出た。桜はほとんど散りかけている。
スマートフォンを開くと、タイムラインは以前より静かだった。派手な動画は減り、ニュースや解説記事が上位に並ぶ。
『おすすめ:持続可能な通信社会を考える』
綾芽は画面を閉じる。自分の投稿一覧を開く。体育祭の動画の横に、小さな灰色の表示。
【低優先度コンテンツ:混雑時は非表示】
非表示。削除ではない。存在はしている。でも、見えない。
綾芽はふと、奇妙な感覚に襲われる。
見られないものは、あると言えるのだろうか。
そのとき通知が届く。
【スコア改善の提案:あなたの発信をより多くの人に届けるために、公共性の高いテーマを扱ってみませんか?】
綾芽は思わず笑ってしまう。
「より多くの人に届けるため・・・、か。」
それは優しさなのか、誘導なのか。
沙耶からメッセージ。
「ねえ、ミームアカウント、凍結予備リスト入った!」
「え?」
「継続的低優先度傾向だって!」
文字の向こうに、沙耶の不安が滲む。綾芽は返信しようとして、指が止まる。励ましの言葉も、容量を使う。送信ボタンの下に表示される。
このメッセージは0.02MBを消費します。
ほんのわずか。けれど、数字が意識に入り込む。綾芽は短く打つ。
「大丈夫だよ。」
送信。残り容量がわずかに減る。
夕方、家に帰ると父がリビングでパソコンを開いていた。
「どうだった、初日。」
綾芽は靴を脱ぎながら答える。
「なんか・・・、テストみたい。」
父は苦笑する。
「慣れるよ。」
慣れる。その言葉が、綾芽の胸に小さく引っかかる。もし慣れてしまったら。
数字に。優先度に。後回しにされる感覚に。
夜、自室。綾芽は投稿画面を開く。テキスト欄に、何も意味のない言葉を打ってみる。
「今日は眠い。」
解析中。
【推定優先度:低】
やっぱり。綾芽は、次に少し真面目なことを書いてみる。
「通信資源を守ることは大切だと思う。」
解析中。
【推定優先度:中】
ほんの少し、色が変わる。綾芽は画面を見つめる。自分の言葉が、意味よりも評価で重さを変える。どちらが本当の自分だろう。眠いと呟く自分か。正しいことを書く自分か。
窓の外では、夜風が木を揺らしている。
音は、優先度を持たない。虫の声も、風のざわめきも、誰かの評価を待たない。綾芽はスマートフォンを置き、天井を見る。
もし。
もしこのまま、低いスコアの人から静かに見えなくなっていったら。それは差別だろうか。それとも自然な選別だろうか。
通知音が鳴る。沙耶から。
「ねえ、もし私のアカウント消えたらさ。」
続きが表示される前に、綾芽の心臓が少し速くなる。
「オフラインでちゃんと会おうね!」
綾芽は、ほっと息をつく。そして、少しだけ寂しくなる。
画面の上部。
【本日の残り送信容量:6.1MB】
数字は減っていく。言葉も、動画も、笑いも。すべてが、帯域という細い道を通っていく。
綾芽は思う。価値は、測れるのだろうか?もし測れたとして、それは本当に価値なのだろうか?
画面を閉じる。部屋は静かだ。優先度のない夜が、ゆっくりと更けていく。
削除予告
五月の終わり、空気は少し湿り気を帯びていた。
優先度スコアの表示にも、もうみんな慣れ始めていた。教室で話題になることも減り、数字は成績のように静かに受け入れられている。
恭平は相変わらずA帯を維持し、沙耶は投稿頻度を落とした。綾芽は、CとBのあいだを行き来している。
ある日、帰宅途中の電車の中で、通知が震えた。
【重要なお知らせ:あなたのアカウントは、継続的低優先度傾向が確認されています。30日後に「アーカイブ化」対象となる可能性があります。】
綾芽は、一瞬、意味が理解できなかった。
アーカイブ化。
言葉は柔らかい。削除ではない。凍結でもない。ただ、「保存」されるだけ。
けれど詳細を開くと、冷たい文章が続く。
【アーカイブ化されたアカウントは、一般公開タイムラインから非表示となり、検索対象外となります】
つまり。存在はするが、誰にも届かない。
綾芽の喉が、きゅっと締まる。電車の窓に映る自分の顔は、少し青白い。その夜、部屋でアカウントの投稿一覧を開いた。
体育祭の動画。沙耶と撮った放課後のダンス。雨の日の帰り道に撮った曇った空。「もう無理」とだけ書いた深夜の投稿。
どれも再生数は少ない。でも、その一つ一つに、匂いや温度がある。あれは、確かに私たちの時間だった。
綾芽は、最初に投稿した日付を指でなぞる。まだ規制もスコアもなかった頃。数字を気にせず、思いついたら送っていた。
翌日、学校で沙耶に打ち明ける。
「私、削除予告きた。」
沙耶は一瞬固まる。
「え、うそ。もう?」
「アーカイブ化ってやつ。」
沙耶は視線を落とす。
「実は私も、昨日来た。」
言葉が見つからない。
恭平は少し遅れて教室に入ってきた。綾芽は迷いながらも、彼にも伝える。恭平は眉をひそめる。
「でもさ、アーカイブって消えるわけじゃないんだろ?」
「見えなくなる。」
綾芽は小さく言う。
「誰にも届かなくなる。」
恭平は何か言いかけて、やめた。放課後、綾芽は父に聞いた。
「アーカイブって、どこに行くの?」
父は少し考える。
「低優先度データ用の圧縮サーバーだ。冷却も最低限。アクセスは制限される。」
「取り出せるの!?」
「理論上は。でも一般公開はされない。」
理論上。綾芽は、その言葉の遠さを感じる。
「お父さんは、それ正しいと思う?」
父は沈黙する。
「・・・正しいかどうかじゃない。必要なんだ。」
必要。その言葉は、鋭くはない。でも、重い。
夜、綾芽は一人でアカウントを見つめる。「あと29日」と表示されている。
カウントダウン。
まるで余命宣告みたいだ、と綾芽は思う。
彼女は一つの動画を再生する。体育祭のリレー、バトンを落として笑い転げた瞬間。
【低優先度:混雑時非表示】
綾芽は、涙がにじむのを感じる。「無意味」だったかもしれない。でも、あの日の笑いは本物だった。
スマートフォンを握りしめる。もしこれが消えたら。沙耶との記録も、深夜の弱音も、小さな「好き」も。全部、冷たい倉庫の奥に押し込まれる。
そのとき、メッセージが届く。
沙耶。
「ねえ、バックアップしよ!」
「え?」
「スクショでも、外部保存でも。消える前に!」
綾芽ははっとする。完全には消えない。手元に残すことはできる。
でも。
それはネット上の私とは違う。タイムラインに流れ、誰かが偶然見つけ、「懐かしい」と言ってくれる未来。
それが失われる。
綾芽は、投稿画面を開く。残り容量はわずか。新しい動画を撮る余裕はない。
テキスト欄に指を置く。何を書けばいいのか、わからない。
抗議?怒り?正論?
どれも違う気がする。
窓の外では、雨が降り始めている。しとしとと、静かな音。雨は優先度を持たない。誰にも評価されない。それでも、確かに降る。
綾芽は、まだ送信しない。
カウントダウンは続く。29日。時間は、数字に変わる。
そして彼女は初めて、本当の不安を感じる。
もし、私のアカウントが見えなくなったら。私たちの繋がりも、細くなってしまうのだろうか。
部屋の中は静かだ。スマートフォンの画面だけが、かすかに光っている。その光も、いつか優先度を失うのだろうかと、綾芽は考えていた。
最後の送信
「あと、1日。」
画面の右上に表示された数字を、綾芽は何度も見返した。
六月の空は、梅雨の雲に覆われている。湿った風がカーテンを揺らす。アーカイブ化まで、残り二十四時間。
教室はいつも通りだった。誰かが小テストに文句を言い、誰かが新しいスニーカーを自慢している。けれど綾芽には、世界の音が少し遠く聞こえた。
沙耶は言う。
「ねえ、ほんとに投稿しないの?」
綾芽は笑う。
「するよ。たぶん。」
恭平は少し気まずそうに言った。
「・・・ごめん、俺、なんか。」
「なんで謝るの?」
「俺、スコア高いから。」
綾芽は首を振る。
「それは恭平が悪いんじゃない。」
そう、本当に悪いのは誰でもない。帯域は有限。資源も有限。それはたぶん正しい。
でも。
放課後、三人は校庭の隅に座った。スマートフォンを並べる。
「最後だし、なんか撮る?」沙耶が言う。
綾芽は空を見上げる。灰色の雲の向こうに、薄い光が滲んでいる。
「動画はやめとく。重いから。」
冗談めかして言うと、沙耶が少し泣きそうな顔で笑う。綾芽は、テキスト入力画面を開く。
【残り送信容量:5.8MB】
十分すぎるほど軽い。それでも、指が震える。何を書けばいいのだろう。
怒りでもなく、正論でもなく、悲劇の主人公でもなく。ただ、自分として。
綾芽はゆっくりと打ち始める。
もしこのアカウントが見えなくなっても、
私たちはちゃんと笑っていました。
体育祭で転んだことも、
夜中にくだらない動画で笑いすぎたことも、
全部、本物でした。
もしネットが静かになっても、
ここにいたことを、誰か覚えていてくれたらうれしいです。
送信ボタンの下に表示が出る。
【推定優先度:低】
綾芽は、少しだけ笑う。
「やっぱりね。」
沙耶が横から覗き込む。
「いいじゃん、・・・それ。」
恭平も言う。
「俺、スクショする。」
綾芽は深呼吸する。
電波は見えない。ケーブルも見えない。どこかのサーバーで、冷却水が回っている。
それでも。
この瞬間は、確かにここにある。綾芽は送信ボタンを押した。小さな振動。投稿完了。
再生数は伸びないだろう。優先度も上がらない。それでも、数秒後。
沙耶から通知。
「見たよ!」
続いて、恭平。
「保存した。」
さらに、クラスの何人かから、短い「いいね」。
多くはない。バズらない。でも、届いている。
綾芽は胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
その夜。
カウントダウンはゼロになった。アカウントの横に、小さな灰色の表示がつく。
[アーカイブ済み]
タイムラインからは消える。検索にも出ない。綾芽は画面を閉じる。
少し寂しい。けれど、不思議と絶望ではない。
翌朝、学校の門の前で沙耶が手を振る。
「おはよ!」
その声は、帯域を使わない。恭平が後ろから言う。
「昨日のやつ、まだ残ってるよ。俺の端末に。」
綾芽は笑う。
ネットは狭くなった。発信は制限された。けれど、消えなかったものがある。
教室のざわめき。放課後の空。隣にいる友達。
綾芽は思う。
自由に送れた時代は終わったのかもしれない。でも、繋がる方法は一つじゃない。
空は相変わらず広い。雲の向こうには、きっと光がある。
見えなくなったアカウントの奥で、彼女の言葉は静かに保存されている。いつか誰かが、偶然それを掘り起こす日が来るかもしれない。来なくてもいい。
あの放課後に、確かに送信した。それだけで、十分だった。
私たちのアナログミームはずっとオンライン
春は、ゆっくりと戻ってきた。
ネットワークの大規模な制限が始まってから、数か月が過ぎていた。かつては放課後になると自動的に更新されていたタイムラインも、今では一日に数回だけ、短い窓のように開く。投稿は厳選され、動画はほとんど流れず、ミームは遅れて届くか、届かない。
それでも、世界は止まらなかった。
綾芽は、校門の前で立ち止まり、空を見上げる。通知音は鳴らない。だが、隣にはちゃんと、沙耶と恭平がいる。
「今日のアナログミーム、どうする?」
沙耶が小さなノートを掲げる。そこには、手描きのイラストと、昨日の出来事をもじった即席ネタが描いてある。かつては数秒で拡散していたような冗談が、今はクラスの中で回覧され、放課後には別の絵に描き足されて戻ってくる。
恭平は学校の放送部に入り、昼休みに短い音声番組を始めた。タイトルは「ローカル・ストリーム」。校内放送限定の、ゆっくりした配信だ。
「回線は細いけど、声は太くなった気がするな。」
そう言って彼は笑う。
綾芽は最初、不安だった。インターネットが縮小すれば、関係も縮小してしまうのではないかと。遠くの友達と、もう二度と同じ熱量で笑えないのではないかと。
けれど、制限下のネットは、完全に消えたわけではなかった。週末の夜、短い通信枠が解放されると、綾芽たちはあらかじめ用意していたメッセージを一斉に送る。文章は短く、動画はほとんど使えない。だからこそ、一行一行を選び抜く。
「今週は、桜が三分咲き。」
「次に会えたら、あの続き話そう。」
「ちゃんと元気だよ。」
かつては流れて消えていった言葉が、今は小さな宝石のように残る。
綾芽は気づく。『接続』とは、光ファイバーの中を走る信号だけではなかったのだと。
ある日、三人は市立図書館の前で立ち止まった。かつてはWi-Fi目的で人が集まっていた場所だが、今は静かな読書室として賑わっている。
掲示板には、「手紙交換コーナー」と書かれた箱が置かれていた。見知らぬ誰かへの手紙。返事が来る保証はない。綾芽は迷った末に、一枚の便箋を書いた。
「もしあなたが、この世界のどこかで回線を待っているなら。私たちは、ここでちゃんと笑っています。」
それを箱に入れると、胸の奥がふっと軽くなった。
帰り道、夕焼けが校舎を染める。スマートフォンは静かだ。けれど、三人の会話は止まらない。
「昔の方が便利だったよね。」
沙耶が言う。
「でも、今の方が覚えてること多くない?」
恭平が返す。綾芽はうなずいた。
確かに、以前は世界中と瞬時につながれた。けれど今は、目の前の一人と深くつながっている。
夜、自室の机で綾芽は端末を開く。次の通信枠まで、あと三時間。画面の右上には、小さく表示された残りデータ量。かつては気にしたこともなかった数字だ。
綾芽は静かに入力する。
「今日は、友達と笑いました。」
送信ボタンは、まだ押さない。時間になったら、まとめて送る。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしている。電波は弱くなったかもしれない。けれど、心の中の回線は、むしろ強くなった。
インターネットが細くなっても、彼女たちの『オンライン』は、切れていない。
光は、ケーブルの中だけにあるのではないのだから。





