キャンバスの輪 – HLHS0036

放課後の教室には、夕陽が斜めに差し込んでいた。机の上に置かれた絵の具箱や色鉛筆が、どこか神々しいほどに静かに光っている。

「……あの、先生」

戸をそっと開けて顔をのぞかせたのは、五年生のユウトだった。やや長めの前髪の下に隠れた目は、いつもより少し暗かった。

「ユウトくん。いらっしゃい。今日の体育、大変だったね」

美術室にいた朝倉先生は、柔らかく笑いながら振り向いた。四十代くらいの穏やかな女性で、いつも小さなブローチと絵の具のにおいを身にまとっている。

「…みんなの前でドッジボール外して、あいつ、下手くそって言われて……。何も言い返せなかった」

ぽつりとつぶやいたユウトは、足元ばかり見ていた。

先生は、そっと棚から一箱の色鉛筆を取り出した。少し使い古されて、短くなったものもある。

「ユウトくん、この色鉛筆たちを見て。全部、色が違うでしょう?」

「……はい」

「赤は情熱的、青は冷静、黄色は明るくて元気。黒は影を、白は光を描く。どれも違う。でもね、ひとつだけじゃ、絵は完成しないの」

そう言って、先生は一枚の白いキャンバスを取り出し、色鉛筆を少しずつ並べていく。

「ユウトくん。人の社会も、これと同じ。みんなが同じ特技だったら、つまらない絵になる。体育が得意な子もいれば、走るのが苦手な子もいる。でも、絵を描いたり、話を聞いたり、人を笑わせたり——それぞれにしかない色があるの」

ユウトは黙って先生の手元を見つめていた。先生は一本の緑の色鉛筆を手に取った。

「たとえばこの色。森や草や、大地の色。目立たないけれど、背景を支えるすごく大切な色。これがないと、他の色も映えないの」

「……ぼく、体育は得意じゃない。でも、絵を描くのは好きです。あと、本読むのも」

「それも立派な色よ。世界はね、一枚のキャンバスみたいなもの。大きくて、広くて、誰かの色を消すんじゃなくて、重ねていくことで美しくなるの」

ユウトの肩が、少しだけ軽くなった気がした。先生の言葉が、じんわりと胸に染みていく。

「明日は、どんな色を塗ろうかな」

小さくつぶやいたユウトの声に、先生はそっとうなずいた。

「自分の色を信じて描けばいいのよ。きっと誰かの絵ともつながっていくわ」

外を見ると、夕空がほんのり赤く染まっていた。ユウトは、机の上の赤と青と緑の色鉛筆を見つめた。バラバラだけど、並べると不思議と綺麗に見えた。

次の日の図工の時間、ユウトは誰よりも早くキャンバスに向かった。白い紙に、静かに緑を走らせる。

その色はまだ控えめだったけれど、確かに、彼だけの色だった。

その日以来、ユウトは休み時間にも、美術室へ足を運ぶようになった。朝倉先生は無理に声をかけることはせず、彼の好きなように描かせてくれた。

そしてある日、担任の先生がクラスで発表した。

「来月の学芸会で、学年ごとにテーマ展示を行います。五年生は”私たちの世界”がテーマです。みんなで一枚の大きな絵を描いて展示しましょう」

教室がざわめいた。

「でっかい紙に全員で描くってこと?」「なに描くの?」「分担、面倒くさそう〜」

そのとき、珍しくユウトが手を挙げた。

「……もし、よかったら……ぼく、絵の構図、考えてもいいですか」

一瞬、教室が静まった。

「おまえが?」と声があがったのは、体育でユウトをからかったケンタだった。

でも、そのとき他の子がつぶやいた。「この前、美術室でユウトが描いてた夕焼け、すげぇ綺麗だったよ」

「私も見た。木の色とか、すっごくリアルで優しい感じだった」

クラスの空気が、ほんの少しだけ変わった。

「じゃあ、ユウトくん。構図案、お願いできるかな?」と担任の先生。

ユウトは、心臓がどきどきしながらも、小さくうなずいた。

翌週、ユウトは一枚のスケッチを持ってきた。

それは、一枚の大きなキャンバスに、さまざまな場面が描かれた構図だった。

『青い空の下で、走っている子どもたち』
『木の下で本を読んでいる子』
『舞台で踊っている子』
『誰かを笑わせている子』
『小さな子に手を差し伸べている子』

「これ、みんなの得意なことや好きなことを一枚に描いたものなんです。全部ちがうけど、どれもこの世界の一部だと思って……」

静かに説明するユウトに、クラスメイトたちはじっとスケッチを見つめていた。

「……この中、俺、走ってるやつ描きたい!」とケンタが手を挙げた。

「私は、木の下で本読んでる子がいいな」

「わたし、お花描いていい?」

みんなが次々に声を上げた。やがて「協力して一つの絵を描く」ということが、だんだん楽しい遊びに変わっていった。

当日、展示された大きな絵は、まるで一枚の命のあるキャンバスだった。

色鉛筆や絵の具で描かれた多彩な人物、背景、空、地面。色が重なり合い、ときににじみ、ときに塗りつぶされながらも、どの一筆も無駄じゃなかった。

「この絵、なんだか見てると元気が出るね」と見に来た他学年の生徒が言った。

「五年生、仲良いんだなぁ」「この夕焼け、ほんときれい……」

ユウトは少し離れた場所から、みんなが描いた絵を眺めていた。

「いい色、出てるわね」

いつの間にか隣にいた朝倉先生が、そっと言った。

「……はい。みんなの色が集まったから」

ユウトの声は、もう俯いていなかった。

それはまるで、白い紙に一本一本の色鉛筆が力を合わせて描いた「世界」。一人ではできなかった絵も、違う色が隣にあるからこそ、美しく見える。

ユウトの中には、確かな『色』が出来上がっていた。誰かと違っても、それが自分の強みなんだということ。自分の色を信じれば、きっと誰かの色とも重なり合って、もっと大きな絵を描けるということ。

そして彼はまた、新しい白い紙に手を伸ばした。

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