海の向こうのありがとう – HLHS0035

ガシャン。ガタン。ピッ。

朝6時、海沿いの物流倉庫で、いつものようにコンテナに荷を積む。

──僕の仕事は、ただ荷物を運ぶことだ。

そこに思考はほとんど介在しない。ただ、手が覚えた手順をこなしていく。

頭の中で問いが浮かぶ。

「この繰り返しに、僕の存在理由はあるのだろうか?」

以前、本で読んだ。『ブルシットジョブ』。無意味な仕事を延々と続ける労働者たちの孤独を、グレーバーは記していた。

まるで今の自分のことだ。読書は好んでする趣味だが、時には自らの有り様を問われているような気持ちに、心が折れることがある。

「俺の代わりなんて、いくらでもいる」

誰かがつぶやいた。僕は、それを否定できなかった。

昼休み。お弁当を食べ終えて時間が余ったので、スマホである哲学者の言葉を読んでいた。

『道具を使う人間の本質は世界を開く存在である。』――マルティン・ハイデッガー

彼は言った。

『世界内存在』としての人間は、ただ居るだけでなく、周囲との関係性の中で意味を持つ。物に関わる行為は、その物の背後にある世界を立ち上げるのだと。

僕はコンテナを見つめた。中にはノート、医薬品、布、おもちゃ――。

それらは、ただの物ではない。それが向かう先には、誰かの「未来」がある。

この手が触れるたびに、誰かの時間が進む。目の前の荷物は、世界のどこかでまだ起きていない出来事を準備している。

午後、巨大クレーンが空に弧を描く。海風にあおられ、積み上げられたコンテナの間を一羽の鳥が横切った。

その時、ふと世界が静止したように感じた。

僕の仕事は、ただ荷を動かすことではない。この動きの中に、人間の「活動性」がある。

これは、アリストテレスが言っていた。

『人間とは、ただ生きる存在ではない。善く生きるために行動する存在である。』

僕が積む荷物も、誰かが『善く生きる』ための準備なのだ。子どもが学ぶために、母親が看病するために、大工が家を建てるために。

数日後、僕の働く倉庫宛に、現地企業から一通の手紙が届いた。写真には、東南アジアの市場で布を売る女性と、ノートを開いて笑う子どもたち。

「このノートで、息子は世界を知りました。ありがとう」

ふと、自分の存在に名前のない価値が宿っていたことに気づいた。それは称賛や給料や地位ではなく、「誰かの生活を肯定する力」としての価値。

便利で豊かな社会で生きる事に慣れると、つい忘れてしまいがちなことがある。

僕が暮らす街が便利で豊かなのは、誰かのおかげだ。そして僕の労働は、誰かが便利で豊かになるための過程の一つだ。

自分が「世界の営み」の中に参加している実感が、ひそやかに胸に満ちていく。

僕はもう、「無意味な作業員」ではない。「世界を繋ぐ媒介者」だ。

働くとは、世界の背後を支える哲学的な行為であり、見えない誰かの生を支える、静かな祈りなのかもしれない。

──もしあなたも今、自分の仕事や活動に意味がないと感じていたなら、それが「誰の時間を前に進めているか」を静かに想像してみてほしい。

意味とは、最初からあるものではなく、関係性の中に宿るものだから。

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