観測者たちのIF – HLHS0030

デジタルディスクを「焼く」表現
かつて「人間の未来は、どのように変化し得るか?」という問いを真正面から扱おうとした者がいた。
その人物、高坂准一(こうさか じゅんいち)。国立人間未来研究所の主任研究員であり、社会システム工学と仮想神経モデルの第一人者である。
彼の研究室では、「人工知能社会実験シミュレータ」という、現行社会の構造を再現した高精度の仮想空間が稼働していた。
シミュレータの中では、人間の意識構造、環境、制度、経済、感情のモデルが組み込まれており、現実世界とほぼ同等の振る舞いを再現できる。
だが、高坂が今観察しているのは、現実社会の延長ではない。彼はその中に、まったく新しい社会モデルをインストールしていた。
モデルS:親なき社会
そのモデルはこうだ。
全ての子どもは出生後ただちに国家管理下の育児施設へ移送され、成人するまで親元に戻ることはない。
家庭制度は撤廃され、親という概念は法律上からも消される。代わりに、国家が教育と生活、人格形成を完全に担う。
この「モデルS(State Rearing Model)」は、高坂が長年提唱していた仮説だった。
「少子化、教育格差、児童虐待、共働き社会の限界…あらゆる要素は家庭という私的領域に依存している。ならば、家族制度をまるごと公的空間に移すことで、社会そのものを再構築できるのではないか?」
学会では異端とされ、倫理審査でも何度も却下されたこの仮説。
だが彼は諦めなかった。仮想空間内でなら、誰にも傷つけずに証明できる。
仮想都市「イデオポリス」
彼が設計した都市は、仮想空間に構築された人口100万人の大規模都市「イデオポリス」。
ここには二つの時間軸が存在する。ひとつは現行社会モデル、もうひとつはモデルS。
彼は同時並行で二つの都市を走らせ、人々の成長、経済活動、感情、暴力、創造性、死に至るまでを観察していた。
二十年目の観測
ある日、高坂は助手の佐伯理奈とともに、モデルSで育った最初の世代が成人式を迎えた日のログを再生していた。
「皆、同じような口調だわ。理路整然としていて、でも…ちょっと感情が薄い気がする」
「感情の出力レベルは抑えめに設計されている。個人より社会の調和を優先するように最適化された結果だ」
「でも、それって…人間らしいの?」
理奈の疑問に、高坂はしばし無言でログ映像を見つめた。
20歳になった市民たちは、互いに形式的に祝辞を述べ合い、未来への誓いを共有する。恋人同士のように見える二人ですら、互いに「生殖契約を前提とした感情交流」を始める手続きを交わしていた。
一方、現行モデルの都市では…
同年、現行モデルの仮想都市では出生率が前年からさらに0.2ポイント減少。
DV通報件数が過去最高を更新し、保育士不足による待機児童が3万人を突破していた。
「…それでも、こっちの方が人間らしいと感じてしまうのは、私たちが旧来の感情でできているからよね」
理奈がぽつりと言う。
「社会として持続するか、人間らしく朽ちていくか。その選択肢は、今や本物の世界にも突きつけられている」
シミュレーション内での異変
だがその夜、モデルS内で予想外の事象が発生した。
ひとりの青年、「レオン」が、公共端末の使用記録に異常値を出したのだ。
彼は施設の規範を逸脱し、未登録の文献「古代家庭構造論」を繰り返し閲覧していた。
そしてある日、仮想空間内の「仮想旧市街地」に不正アクセスし、空き家にテーブルと椅子、写真立て、カーテンを設置した。
「…彼は家族という概念を、独力で発明しかけている」
高坂はその記録を何度も再生しながら呟いた。
レオンは施設での生活に順応していたが、どこかに拭いきれない空白を感じていたのだろう。
ある日、彼はログにこう残した。
「自分がどこから来て、なぜ生きるのかを問うとき、制度からは答えが返ってこない。でも、もし誰かが自分を見ていたのだとしたら、そこに意味が宿る気がするんだ」
今、問われている
シミュレーションは継続されている。
モデルSの人口維持率、犯罪率、経済効率、教育成果はいずれも現行モデルを上回っている。
だが、高坂の心は静かではなかった。
社会の維持は可能になった。だが、「人間の意味」は、ほんの一人のレオンによって、深く突き刺されたままだった。
そして今、高坂自身が問われている。
「君は、この社会を現実に実装したいのか? それとも、観測者のままでいたいのか?」