沈黙が信じている – HLHS0029

放送休止中に出るテレビ画面
スタジオの空気は笑いに包まれていた。
バラエティ番組『夜ふかしトークZ』、芸人たちが軽快にボケを繰り返し、ゲストとして呼ばれた俳優・神崎涼(かんざきりょう)も、それなりに表情を和らげていた。
しかし、ある芸人が涼の過去作品を茶化し始めたとき、空気は一瞬にして変わった。
「いや〜神崎さんのあの映画、途中で寝ちゃってさ〜、夢の中でもまだ説教してたからさすがに笑ったよ!」
笑いが広がる。けれど、涼の目だけが笑っていなかった。
「……作品って、寝て見るもんじゃないですよ。」
抑えた声だった。スタジオは一瞬静まり返り、ディレクターがカンペを振った。
その後も進行は続いたが、涼は終始、口数を減らしていた。
収録後、ディレクターに「問題のシーンはカットしますから」と肩を叩かれた涼は、黙って控室へ戻った。
控室には、さっきの芸人が気まずそうに挨拶しに来た。
「あなたは自分の仕事をしました。ちょっとムキになって、こちらこそ大人気なかったです。」
時に逸脱した空気を作るからこそ笑いが起こる。芸人という立場を自分なりには理解していたつもりで、彼を責めるつもりは毛頭なかった。お互いに和解し、これでこの出来事は全て穏便に終わると思っていた。
だが、オンエアされた番組には、その「静かな怒り」の場面がそのまま使われていた。
テロップには「えっ、ここでマジギレ!?」
BGMには緊迫した効果音、編集された観覧客の「えーっ!?」という声。
放送直後、SNSは嵐のようだった。
「うわ、空気読めなさすぎ」
「ああいうやつが現場の空気壊すんだよ」
「男のくせにメンドくさい」
「あーあ、もうこの人のドラマ見ない」
炎は一気に燃え広がった。ニュースサイトにも「神崎涼が番組中にブチギレ」という見出しが躍り、涼の過去の発言や容姿、態度までが引き合いに出され始めた。
マネージャーは苦渋の表情で言った。
「……謝罪会見、やらなきゃならないかもしれません」
会見当日、照明の当たる壇上に立った涼は、ゆっくりと頭を下げた。
「私の言動や態度により、不快な思いをされた皆様にお詫び申し上げます」
原稿には書かれていない言葉も、涼の中から自然にあふれた。
「表現の現場では、笑いや演出が不可欠なことも承知しています。ただ、その場に流れる空気の中で、どうしても許容できない瞬間がありました。私の態度が多くの方に違和感を与えたことは、真摯に受け止めています」
記者たちのフラッシュの光が、静かに涼の輪郭を照らした。
会見の翌日、一つのツイートが注目を集めた。
「でもこれさ。収録されたテレビ番組なのに、マジギレの場面をわざわざ放送してるのって、そっち(局)の判断じゃないの?」
この投稿には瞬く間に数万のいいねがつき、リプライには同調する声が続いた。
「確かに。炎上させる気満々だったんじゃ?」
「テレビ局が視聴率のために、絵になる怒りを切り取っただけでは?」
「あの編集、悪意あるよね」
涼の存在すら否定するような、エスカレートした書き込みの嵐がまるで嘘だったかのように、騒動の矛先は一斉にテレビ局へと向かい始めた。
番組プロデューサーは翌週の放送で「配慮を欠いた編集であった」と謝罪コメントを読み上げた。
数週間後、涼が主演を務めた映画『月を背にした獣たち』の舞台挨拶が都内の劇場で行われた。
イベントの終盤、MCが話を締めようとしたとき、客席の一人の女性が声を上げた。
「神崎さん、ずっと応援してます!」
驚いたように涼が顔を上げると、他の観客も小さく、でも確かに拍手を始めた。
それはまるで、「沈黙を貫いていた人たち」が、今初めて声をあげたかのような、やさしい拍手だった。
騒がず、騒がせず、信じ続けていたファンたちの存在が、そこには確かにあった。
ステージの上で、涼はそっとマイクを口に近づけた。
「ありがとうございます。ちゃんと、届いています」
その言葉に、場内は再び拍手に包まれた。
叫ばない声が、世界を少しだけ優しくした。
本当の支持とは、派手な言葉やバズではなく、静かなまなざしと、沈黙の中にある信頼である。
俳優「神崎涼」はそれを、この騒動の果てに知ることになったのだった。