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ガラスの国の通貨 – HLHS0028

ガラスの国の通貨

ウラオモテ社会

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第一章:ラシェルのいない国

大統領官邸の執務室。その窓辺に、若き新大統領リア・ヴァレンティスは一人立っていた。

前任者ラシェル・イグナートフの肖像画が、静かに壁にかかっている。

彼女が退任してから6年。かつてラシェルに拾われ、秘書官としてその背中を見てきたリアは、わずか34歳にしてエルマリア共和国の国家元首となった。

ラシェルの遺した「矛盾への敬意」「表裏一体の世界観」は、社会に静かな波紋を広げていた。

だが、実務に戻った国家は再び、「平等」を掲げて政策を進め、「幸福」を数値化し、「平和」を規範で守ろうとしはじめていた。

抑圧は形を変えて残り続け、ネットでは「清潔すぎる社会」の息苦しさが若者たちの怒りとして蓄積されていた。

リアは知っていた。ラシェルが去ったあと、国はまた片面だけの理想に傾いていた。

「正しさだけで国は動かない。けれど、間違いだけでも許されない。」

どちらかではなく、両方と向き合う国家を──それがリアの目指す「次の時代」だった。

第二章:支配なき支配、従属なき抑圧

リアはまず、かつての反体制エリアに自ら足を運んだ。そこでは、都市整備が行き届いたはずの「平等区画」で、違法労働と影のサービス業が息づいていた。

「こんなはずじゃなかった」と多くが言った。だがその一方で、「こんな仕事しか、楽しめない」と笑う者もいた。

同じ制度下で、「自由を感じる者」と「抑圧を感じる者」が共存していた。

なぜか?

「制度が支配してるんじゃない。正しさを疑わない心が支配しているんだよ。」

ある老人がそう言った。

「皆、選ばされていることにすら気づかないまま、平等の中で、満足すべきだと命じられてる。」

それは「抑圧の透明化」だった。

怒る場所も、反発する壁も失われ、誰もが自分を責め、静かに折れていった。

リアは国会に立ち、新たな提案を行った。

「この国に、新しい通貨を導入します。」

第三章:影と光を刻む通貨

その名は《ユナ》。

「unite(結び)」と「una(ある一つの)」から名付けられた、裏と表が完全に連動した二面式電子通貨だった。

通貨画像の片面には「得られたもの」が刻まれ、もう片面には「それによって失われたもの」または「支えた誰かの労力」が刻まれている。

たとえば、娯楽サービスを取引したユナコインには:

表面:〈娯楽〉のアイコンと利用者の満足度

裏面:その制作に携わった人々の工数と精神労働値

が、決済の双方に視覚的に表示される。

すべての取引が「自分だけ」の満足で終わらず、「他者の努力」の記録を伴って流通する──

そんな通貨だった。

「幸福を買うということは、誰かの負担を引き受けるということ。感謝と共に、それを受け取ってほしい。」

リアはそう語った。

一部のメディアは「罪悪感経済だ」と嘲ったが、多くの若者はユナを「人間らしい貨幣」と呼び、使い始めた。

第四章:誰かの裏を、生きているということ

ある日、ある若者がリア宛に手紙を送ってきた。

「母がユナの裏面に、彼女の名前を見つけて泣いていました。自分が報われた気がするって。ずっと工場で黙々と働いていたのに、誰にも気づかれないって思ってたみたいです。」

リアはその手紙を、議会で音読した。

「私たちは、いつも表側しか見ていない。でも、その光の裏には、誰かの影がある。それに気づける社会なら、たとえ完全な平等でなくても、不満の暴発ではなく共感の回復が可能になるはずです。」

この演説のあと、国民の間で「ユナの裏面を読む習慣」が静かに広がった。

SNSでは「#ありがとうユナ」というタグが流行し、自分が享受したサービスの裏面にいる人々へ、手紙や動画で感謝を伝えるキャンペーンまで始まった。

誰かの苦労が、私の楽しさを支えている。

それは社会全体が共有する倫理となり、かつてラシェルが手放さざるを得なかった理想の、別の形での復活だった。

最終章:次の時代へ

リアは、かつてラシェルが立っていた国会の階段に座り、穏やかな夕日を眺めていた。

ラシェルのようなカリスマは自分にはないと知っていた。だが、彼女の遺した傷と疑いがあったからこそ、リアはこの国を「より矛盾に耐えられる社会」に育てることができたのだ。

今や人々は、完全な正しさを求めない。代わりに、「不完全な他者」と共に歩くことの意味を知り始めている。

「私が幸福であるとき、誰かが働いている。私が働いているとき、誰かが笑っている。」

エルマリア共和国は、そうした連帯の感性によって動き出した。

どこまで行っても、表と裏は一体だ。

だがそれを「不幸」とせず、「理解」と「感謝」に変えることはできる。

リアは、次の世代のためのメッセージを通貨の裏面に刻むよう命じた。

「この光の裏に、あなたがいる。ありがとう。」

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