昼食は愛情の処方箋 – HLHS0026

もちっと香ばし塩焼きそば
昼過ぎ、陽射しがカーテン越しに差し込んでいる。
龍樹(たつき)はようやく布団から這い出すと、よろよろとキッチンへ向かった。テーブルの上には、母が置いていったメモと、白いお皿にラップのかけられたお昼ごはんがあった。
「レンジで1分半。お味噌汁は鍋。」
簡単な言葉。だけど、その言葉には、どこか彼の時間を受け止めようとする優しさが滲んでいた。
母は毎朝、仕事に出る前に必ずこうして昼ごはんを作っていってくれる。龍樹が社会に出て、心を壊してから、もう何年も続いている習慣だった。
彼はそのまま温めた味噌汁を啜りながら、ぼんやりとテレビを眺める。内容は頭に入らない。ただ温かい汁の味と、ご飯の柔らかさが、確かに彼を今日も生かしていた。
かつて彼は、東京の大学を出て、システム開発の会社に就職した。順風満帆なスタートのはずだった。だが、新卒一年目の春、突然、身体が動かなくなった。
朝起きられず、吐き気と動悸、何をするにも焦燥感がつきまとった。診断は、うつ病。会社は長期休職を認めたが、結局そのまま退職した。
「情けないな……俺、何やってるんだろうな……」
布団の中で何度も呟いた。自分の存在が空虚に思えた。家族に迷惑ばかりかけて、社会にも戻れず、夢も見失い、時間だけが流れていった。
ある日の夜だった。
彼は自分の人生に終止符を打とうと、書きかけの遺書を握りしめていた。その手は震えていた。
その前に、せめて母に感謝を伝えよう。そう思って、ふと、声をかけた。
「……毎日、ありがとう。ごはん……ほんとに助かってる」
母は洗い物をしている手を止めて、こちらを見た。そして、何でもないことのように言った。
「当たり前でしょ。あなたの親なんだから。……それより、生きててくれてありがとうね」
その瞬間、涙が頬を伝った。
「生きててくれてありがとう」
その言葉に、彼は心のどこかで「許された」と感じた。
それから少しずつ、彼の生活は変わった。
薬をちゃんと飲み始めた。
夕方、誰もいない時間帯に散歩に出るようになった。
近所の図書館で、静かに座って本を読む練習もした。
人と話すことが怖かったけれど、店員に「ありがとう」と言えるようになった日、自分に拍手したくなった。
やがて、昔かじっていたプログラミングの知識を使って、簡単なWebサイト制作の仕事を受けるようになった。ネット越しのやりとりなら、不安も少ない。
ほんの一歩ずつ。それでも、着実に世界とつながっていると感じられた。
「ただいまー」
母の声が玄関から響く。龍樹は返事をして、冷蔵庫から麦茶を出しておいた。母は手を洗いながら言う。
「今日、焼きそば作ったの。食べた?」
「うん、美味しかったよ。ありがとう」
「それはよかった。明日もまた作るね」
彼は頷きながら、ふと思った。
この何気ない会話、このごはん。この日常が、どれほど深い愛情に支えられているか、ようやく自分はわかるようになったのかもしれない。
母がくれる昼ごはんは、もしかしたら薬よりも効き目がある。それは、生きていていいんだという、ひとさじの安心だった。