HiStory

黒縁の視界 – HLHS0020

黒縁の視界

メガネクロスでレンズを拭く

PhotoAC[31151754]

朝の駅のホーム。成瀬はポケットから黒い眼鏡クロスを取り出し、静かにレンズを磨いていた。通勤ラッシュのざわめきの中、その所作だけがやけに丁寧で、どこか時間の流れから切り離されているようだった。

「お前、いつもそんなに丁寧なんだな」

後ろから声をかけたのは、大学時代の同期・佐伯。

フード付きパーカーにリュックを背負い、いかにも「こだわりゼロ」な男。

「視界が曇ると、考えまでぼやけるからな」

成瀬はそう言って眼鏡をかけ直す。黒縁のフレームが顔にぴたりと馴染み、彼の表情に芯のある静けさを与える。

「成瀬ってほんと、そういうとこ変わんないよな。変わってるけど、かっこいいわ」

照れ隠しに笑う佐伯の声を背に、成瀬は電車に乗り込む。向かうのは、いつもの図書館。

彼にとってそこで過ごす時間は、社会の騒がしさから一歩引いた「思考のメンテナンス」だった。

図書館の静寂の中。

成瀬はいつもの席で、文庫本とノートを机に並べていると、ふと斜め向かいに座る女性が目に入った。黒髪に黒のフレーム。どこか自分と似た感性を感じさせる人だった。

彼女は眼鏡を外し、レンズを袖で拭いたかと思うと、そのまま本を読み始める。

「それ、傷つくよ」

気がつけば声をかけていた。

「え?」

「レンズ。乾いた布で拭くと細かい傷が入る。クロス、使う?」

差し出された眼鏡クロスを見て、彼女は少し驚いた表情を浮かべたが、やがて静かに微笑んでそれを受け取った。

「ありがとう。……そんなに違うの?」

「うん。見た目は変わらなくても、積み重ねで視界が曇る。たぶん、いろんなことも同じで」

「哲学的だね、眼鏡なのに」

「道具だからこそ、考え方が出るんだよ」

それからというもの、彼女──牧野美羽(まきのみう)は図書館で成瀬の近くに座るようになった。ある時はクロスを借り、ある時は成瀬におすすめの本を訊ねる。彼女の眼鏡もまた、成瀬と同じように黒縁で、どこか知的な印象を与えた。

「今日、ちょっと歩かない? 図書館の外も、たまには見てみたい」

美羽が言ったのは、春の終わり。桜の花が舞い散る並木道を並んで歩きながら、ふたりは眼鏡談義を続けた。

「初めてちゃんとクロス使って拭いたとき、びっくりした。世界ってこんなに明るかったんだって」

「そうだろ。見えてるつもりで、実は見えてないってこと、よくある」

「成瀬くんって、なんでそんなに眼鏡にこだわるの?」

「……昔、視力落としたのに放っておいたら、黒板の字が見えなくてすごく困って。焦って眼鏡作ったんだけど、そのとき初めて、自分が何も見えてなかったことに気づいた。あれがたぶん、世界の輪郭を取り戻した瞬間だったんだ」

「ふふ、それからずっと、眼鏡マニア?」

「うん、マニアかもな」

彼女の笑い声が風に混ざって響いた。

成瀬の中で、何かがすっと溶けていく。彼女の視界にも、同じような光が射しているように見えた。

ある雨上がりの午後、図書館の読書スペースで、美羽は足早にやってきた。髪に少し雨粒を残し、息を切らしている。

「急いで来たら……」

そう言って、美羽は手にしていた眼鏡を見せた。片方のレンズにうっすらとヒビが入っていた。

「駅の階段でぶつかって……落としちゃった。やっちゃったなあ」

成瀬は何も言わずに立ち上がり、自分のクロスを取り出すと、美羽の眼鏡をそっと受け取った。

「……ちょっと見せて」

美羽は戸惑いつつも、その様子をじっと見ていた。

成瀬はレンズのヒビを指先で確かめながら、小さくため息をつく。

「軽くヒビが入ってるけど、これはもう交換したほうがいい。たぶん光が乱反射して、視界が歪む」

「うん、わかってるんだけど……今日いろいろあって、気が回らなくてさ」

その声に、成瀬は眼鏡を返さず、かわりに自分の鞄から予備の眼鏡を取り出した。

「これ、俺のだけど。今日だけこれ使えば? 度数近いし、サイズも……たぶん大丈夫」

「え、でも……」

「無理して曇った視界でいる方が、よっぽど危ないよ」

その言葉には、理屈ではなく、美羽を気遣う温かさが滲んでいた。

成瀬の中では当たり前のことだったのだろう。でも、美羽にはそれが、とても深く、優しく響いた。

眼鏡を借りて装着すると、世界がくっきりと輪郭を取り戻す。

それと同時に、成瀬の顔が、いつもより近く、鮮やかに映った。

「……ありがとう。なんか、視界が戻っただけじゃなくて、気持ちも軽くなった」

成瀬は少し照れたように笑った。

「眼鏡って、そういうもんだから」

美羽は、その横顔を見つめながら思った。

(この人といると、ちゃんとした自分に戻れる気がする。まっすぐで、曇りがない……)

その日から、美羽の中に静かにあった成瀬への好意が、確かな「恋」へと輪郭を持ち始めた。

それからしばらくして、すっかり梅雨入りしたある日。ふたりは図書館の一角で、例によって静かに本を開いていた。ふと、美羽が眼鏡を外して机に置く。

「ねえ、今でも毎朝、眼鏡磨いてる?」

「もちろん」

「もし成瀬くんが大丈夫だったら。今後、私のこと見ててほしい、って思ってもいい?」

一瞬、時間が止まったような錯覚がした。

成瀬は、レンズ越しに彼女を見つめた。

「曇ったら……すぐに拭くから」

そう言って微笑んだ彼に、美羽もまたそっと眼鏡をかけ直し、視線を合わせた。

眼鏡越しのふたりの視線は、今や一枚のレンズを通して繋がっていた。雑貨以上の意味を持つアイテムが、ふたりの距離をそっと近づけたのだった。

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