ポケットアルバムの光 – HLHS0017

アナログフィルム
埃をかぶった引き出しを開けたのは、ふとした衝動だった。雨が降る静かな午後、机に置きっぱなしにしていたカメラを眺めていたら、指先が自然とそこに伸びていた。
中から出てきたのは、小さな缶ケース。その中に巻かれていた一本のフィルム。日付の書かれたシールが半ば剥がれている。「2005年・秋」とだけ読めた。
懐かしい響きに胸が少しざわめいた。あの頃の自分。誰かと笑って、無駄話をして、未来をまだ信じていた時代。思い出そうとしても、はっきりとした映像は浮かばない。ただ、そこに何かがあったという「感覚」だけが残っている。
現像所にそのフィルムを持ち込むと、翌日には仕上がっていた。手渡された封筒の中身を、駅前のベンチでそっと取り出す。セピアがかった写真たち。そのどれもに、自分が確かにそこに「いた」という証が焼きつけられていた。
学生服の襟を少し曲げたまま、笑っている自分。教室の窓辺で、誰かがギターを弾いている風景。文化祭のあと、ぐしゃぐしゃになったポスターと一緒に片づけをしている仲間たち。──そうだ、あの時、私はシャッターを切っていた。
その一枚一枚に、音も匂いもついていた。昼下がりの埃っぽい教室の空気。カメラを構える自分の呼吸の速さ。光が反射していたガラス窓。そのすべてが、写真には写っていないのに、確かにそこに「あった」。
家に戻り、私はお気に入りの写真をいくつか選び、小さなポケットアルバムに差し込んだ。手のひらに収まるサイズの、古びた布貼りのアルバム。昔、母が旅行の写真を入れていたものを譲り受けたのだ。
アルバムを閉じるとき、私はふと、自分が何をしているのかを考えた。
「記録」している。だが、それは過去をただ保存することではない。もう一度、そこに立ち返り、自分という存在の輪郭を確かめる作業だ。写真は、過ぎ去ったものを呼び戻す装置ではなく、今の自分が誰なのかを映し出す鏡でもある。
次の週末、私は久しぶりにフィルムカメラを持って散歩に出た。最新のスマートフォンがポケットにあるというのに、私はあえて重たい一眼レフを選んだ。ピントを手で合わせ、光を読む。背景に何を置くか、小物をどう配置するか──そんなことを考えていると、まるで昔の自分と再会しているような気分になる。
「今、この瞬間も、きっと誰かにとっては記憶になる」
そう思いながら、シャッターを切った。レンズの奥には、今この場所を生きる私が確かに存在している。写真は記録ではない、再確認だ。そして、確認するたびに、新しい感情が生まれる。
夜、ベッドの横にある小さな棚に、今日撮ったフィルムをそっと置いた。現像はまた今度でいい。焦る必要なんてない。記憶は、急がなくても、消えない。形を変えて、何度でも自分の中に戻ってくる。
ポケットアルバムを手に取り、パラリと一枚、ページをめくる。白く滲む余白。光が差し込む午後の窓辺。シャッター音の記憶。そこには、忘れかけていた誰かの声と、自分のまなざしが静かに残っていた。
それが、私にとっての「記憶のコピースペース」。
何度でも開ける、小さな引き出しなのだ。