疑問符の煙草 – HLHS0015

これを最後に禁煙は継続できそうですか?
駅前の喫煙所で、男は風に抗うようにライターの火を守った。火がついた瞬間、彼は目を閉じた。肺に染み込む煙とともに、彼の中にあるいくつかの記憶も、またくすぶり始めた。
「また吸ってるの?」
背後から、少し呆れた声が聞こえた。彼はゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、かつての恋人、サユリだった。
「奇遇だな。こんなところで」
「奇遇じゃないよ。毎朝ここを通るから、あなたがまた戻ってきたことにも気づいてた」
彼は気まずそうに笑った。「ああ、禁煙失敗ってやつだ」
サユリは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、駅ビルの方を指さして言った。
「少しだけ、時間ある?」
彼は頷いた。たった今吸い始めたばかりのタバコを、黙って足元の灰皿に押し付けた。
カフェの窓際、ふたりの間にはカップの湯気が漂っていた。
「3ヶ月続いてたんでしょ? 禁煙」
「うん。でも、ある日ふと“1本だけなら”って。そしたら、まただらだらと」
「それでも、3ヶ月続いたことはすごいよ」
「いや、でも結局…」
「でも、まだ『辞めよう』って思ってるんでしょ?」
彼は言葉に詰まった。確かに、吸うたびに後悔していた。喉の奥に残る苦味も、ポケットの奥に感じる小さな罪悪感も、すべてが「続けたくない」と告げていた。けれど、今日もまた火をつけてしまった。
「だったらさ、それって禁煙は続いてるって言えるんじゃない?」
「は?」
「だって、“辞めようとする方針”はまだやめてないんでしょ?」
彼女の言葉は、どこか哲学書の一節のように聞こえた。意味は分かる。でも、それを「努力」と呼んでいいのか?
「でも、社会はそんな甘くない。失敗したら、結局“ダメなやつ”って言われる」
「それは社会が寛容さを失ってるだけ。誰だって過程の中で揺れるのにね」
サユリは、かつて教育系の仕事をしていた。教室の黒板に何度も書いては消し、子どもたちの中に「継続することの価値」を教えていた人だった。
「黒板ってさ、何度書き直してもいいんだよね。むしろ、そうやって上手くなっていく。禁煙もきっとそう。1回で成功する人なんて、ほんの一部だよ」
彼はふと、自分の胸ポケットに入れたタバコの箱を指で撫でた。そこには数本しか残っていなかった。それを「最後」にできるだろうか? できなかったとしても、明日また「最後」を願えばいいのか?
「ねえ、なんで禁煙しようと思ったの?」
その問いは、少しだけ鋭かった。でも、優しさも含まれていた。
「……父親が肺癌になったから。病室で苦しそうに咳をしてるのを見て、『俺もいつか、こうなるのか』って思った。怖くなった。……でも、それだけじゃなかった」
「うん?」
「父さん、最期の言葉が“また失敗したか”だったんだ。何度も禁煙に挑戦してて、でもうまくいかなくて、苦しんで……それでも、諦めてなかった。俺、あの言葉を聞いて……不思議と“敗北”より“尊敬”を感じたんだよ」
サユリは、黙ってうなずいた。彼の中のその記憶こそが、今の彼を支えているのだと理解したからだ。
「それって、すごく強い意志だと思う」
「うん。でもまだ怖い。辞めたって言いながら、いつまた吸うかって不安で……」
「じゃあ、その不安ごと、あなたのライフスタイルにしちゃえばいいよ。“不安になりながらも、毎日やめようと考える人”っていう生き方」
彼は笑った。そして、久しぶりに肩の力が抜けた気がした。
カフェを出ると、彼はポケットからタバコの箱を取り出した。そして、一緒に持っていた黒の油性ペンで、その箱に大きく「?」マークを書いた。
「疑問符?」
「そう、疑問符。この一本が最後になるかは分からない。でも、いつも『本当に吸いたいのか?』って、自分に問い直すためのマーク。……俺の新しい黒板さ」
サユリは微笑んだ。「いいサインだね」
駅に向かう彼の背中は、少しだけ軽くなっていた。タバコの煙は相変わらず空に溶けていくけれど、そこにはもう、自分と向き合う意思が確かにあった。