花畑にあった探しもの – HLHS0014

ミツバチは美しく健康的な花で栄養補給
その春、里山のふもとの小さな町に、一人の青年が戻ってきた。
名前は斎藤圭。東京での生活に疲れ、会社も辞め、ふらりと帰郷した。地元に戻るのは七年ぶり。駅前の風景は少し変わっていたが、山から吹き下ろす風の匂いはあの頃のままだった。
「……ああ、やっぱり、この匂いが一番落ち着く」
それでも、どこか気持ちのやり場が見つからず、圭は毎日のように町外れの野原へ足を運んだ。そこには、祖父の代から手入れされてきた放棄地に、地元の有志が植えたという野草と花が、春風に揺れていた。
ある日、草に腰を下ろして空を見ていると、どこからか「ブウゥン」という低い羽音が聞こえてきた。
「ミツバチか……」
圭の視線の先、小さなミツバチが花の上を飛び回り、慎重に一輪を選んで止まった。じっと観察していると、蜜を吸い、花粉をまとい、また次の花へと飛び移っていく。
その姿は、どこか不器用で、まっすぐで、見ていて胸が熱くなった。
「お前、なんでそんなに必死なんだよ……」
思わず独りごとが出ていた。
ミツバチは、ただひたすらに蜜を求めて飛び回っている。迷いも、戸惑いもなく、自分の役割を疑いもせず。ただただ、目の前の花に向かって。
「ばかだなぁ……」
そう口にしながらも、圭の声には、どこか羨ましさがにじんでいた。
その時、後ろから声がした。
「ミツバチに話しかける人、はじめて見たかも」
振り返ると、麦わら帽子をかぶった女性が立っていた。小さなバケツを持ち、手には剪定ばさみ。花の世話をしていたのだろう。
「いや……なんか見てたら、つい……」
気恥ずかしさから目を逸らすと、彼女はふっと笑った。
「わかるよ。私も時々、話しかけちゃうもん。『今日は元気だね』とか、『もうちょっと咲いててね』とか」
その日から、二人は時々野原で顔を合わせるようになった。
彼女の名前は七瀬夏帆。この花畑の整備にボランティアで関わっているという。仕事の合間や休日に通っては、雑草を抜いたり、草木を観察したりしているらしい。
「栽培ってさ、こっちが何かを与えてるようでいて、実はもらってるんだよね」
ある日、夏帆が言った。
「もらってる?」
「うん。色とか、香りとか、季節とか、時々は気づきとか。自然って、人間が何もしなくてもちゃんと営みを続けてる。でも、近くで見てると、それがどれだけすごいことかわかるんだよ」
圭は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。
自分は、都会で「意味」のあることばかり追いかけていた。成果、効率、他人からの評価。だけど、この野原の中には、何も語らずとも確かに存在する「意味のない美しさ」が広がっている。色とりどりの花、ぼかしのかかった輪郭、無駄に見えるほどの多様性。
それらが、なぜか圭の心を救っていた。
数週間後、圭は古いノートを取り出して、短い文章を書き始めた。
──「ミツバチが見つけた元気な花。明るい太陽の下で美しく咲く花から、栄養を持ち帰るシーン。この花畑は、ミツバチが生きていくために見つけた最高の場所なのかもしれません。」
自分でも、何を書こうとしているのかわからなかった。ただ、言葉にしなければならない何かが、胸の内に芽生えていた。
その日も、夏帆が現れた。
「何か書いてたの?」
「うん……まあ、ちょっとだけ」
「へえ、読んでもいい?」
圭は少し迷ったあと、ノートを手渡した。
読み終えた夏帆は、にっこり笑って言った。
「この花畑が、あなたの“最高の場所”になったのかもしれないね」
その言葉に、圭はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
空を見上げると、夏の日差しが草原を照らしていた。
ミツバチが、また一匹、蜜を求めて飛び立っていく。
圭もまた、もう一度自分の営みを探し始めるのかもしれない。