HiStory

非常口の光の先 – HLHS0013

非常口の光の先

避難経路を光り示す非常口サイン

PhotoAC[32835524]

恭子は、イベント企画会社で働くアシスタントディレクターだった。職場は都心の古い雑居ビル。天井は低く、廊下は細く、部屋ごとの扉もどこか頼りない。それでも、ここからいくつものライブやコンサートを世に送り出してきた。

ある日、恭子が急ぎ足で資料を抱えて廊下を渡っていると、大きな脚立が通路のど真ん中に立ちはだかっていた。

「すみません、通れますか?」

天井の点検口から、ひょこっと顔を出した男がいた。作業着姿の中年男性。恭子の会社とは別の、ビルの保守管理を担当している石井という名の人だった。

「あー、すみませんね。非常口の看板、ちょっと配線が古くなってて交換中なんです」

「あの……急いでるんで」

「あっ、はいはい、すぐ降ります!」

彼はそそくさと脚立を降りて道を空けた。恭子は軽く会釈し、言葉を返す余裕もないまま足早に去っていった。

非常口の看板。いつも天井でぼんやり光っている緑色のアレ。意識することもなかった。だが数日後、その緑のサインが彼女の人生を変えることになる。

その日、恭子は資料室でひとり作業していた。来月開催の音楽フェスのタイムテーブルを組み立てながら、膨大な出演者資料をめくっていた。

――ピーピーピー。

「……また誤作動?」

火災報知器が鳴り響いた。最近このビルは誤作動が多く、誰もが慣れてしまっていた。恭子も「やれやれ」とため息をつきながらページをめくる手を止めなかった。

だが、その数分後。焦げ臭い匂いが鼻をついた。資料室の隙間から、かすかに煙が入り込んでくる。

「まさか……」

どくん、と胸が跳ねた。誤作動ではなかったのだ。実際に、どこかが燃えている。

頭が真っ白になる。資料室はビルの奥。出口がすぐには見えない。パニックが忍び寄る中で、ガチャリとドアが開いた。

「まだいたか!」

石井だった。息を切らしながら、懐中電灯を片手に飛び込んできた。

「逃げるぞ!」

恭子は反射的に頷いた。けれど、どこに? どっちへ? 廊下はすでに煙で覆われていた。非常灯が消え、照明も落ち、視界は朧気だった。だが、石井は迷わず手を伸ばしてきた。

「大丈夫、ついてきて!」

彼の手が、恭子の腕をぐっと引いた。まるで、あの非常口のピクトグラムのように。

廊下の壁に、ときおりぼんやりと緑の光が浮かぶ。それは非常口のサインだった。どんなに煙が濃くても、どんなに視界が悪くても、そのサインだけは頼もしく浮かび上がっていた。

「なんでそんなに迷いなく進めるんですか……?」

「このビル、何年も点検してるんですよ。避難経路、もう頭に染み込んでて。職業病ですね」

彼は、軽く笑った。火災の中でも、あのときと同じ、ひょうひょうとした表情だった。

ようやく外に出たとき、冷たい空気と消防隊の怒鳴り声が全身を包んだ。二人はそのまま病院へ運ばれ、幸いにも大事には至らなかった。

後日、恭子はコンサート会場の設営会議で、Bエリアの通路が少ないことを指摘した。「いざというとき逃げられない配置は、失格だと思うんです」。それは、火災を経験した彼女だからこそ気づけた視点だった。

非常口のサインが、ただの看板ではなく「命の道標」だと、ようやく実感したのだ。

仮オフィスに移転してから、石井とは会っていなかった。だが、あの日連絡先だけは交換していた。恭子は迷いながらも、メールを打った。

「あの日、私はあなたに命を救ってもらいました。でも、まだ何もお礼ができていません。よかったら、私が企画したコンサートに一緒に行きませんか?当日、Bエリアの非常口ゲート前で待っています」

そして迎えた当日。Bエリアのゲート前には、緑の非常口サインがいつものように光っていた。恭子はその光を見上げながら、不思議な安心感に包まれていた。

遠くから、誰かが手を振って走ってくる。

それは石井だった。少し息を切らせながら、満面の笑みで近づいてくる。

「遅れてすみません、迷いました」

「嘘ですよね、避難経路は頭に入ってるんじゃないんですか?」

「会場の構造は初めてでして」

そう言って笑う彼の姿に、恭子はまたあの日の緑の光を重ねていた。

非常口は、逃げ道を示すサインだ。

けれどそれは、「生き延びた先に、まだ続きがある」という希望のしるしでもある。

Change Lang »