ペンネーム「鏡絵文字郎(かがみ・えもじろう)」として作家活動をしている私は、再び忙しい日々に追われていた。
創作のための原稿、文献の考察依頼、雑誌の隅を埋める短いコラム。
気がつけば朝から晩まで、キーボードを叩き続けている日も珍しくない。書いているはずなのに、どこか書かされている感覚があった。
画面の向こう側には、いつも「読む誰か」がいる。それは読者であり、編集者であり、数値や評価の集合体でもあった。
ある日、出版社から一通のメールが届いた。ライターチームで一冊の旅行本を作る企画だという。
タイトルは『執筆が見る日本列島』。
それぞれが担当する県を選び、自由にコラムを書く。ただし、他の執筆者との兼ね合いがあるため、早めに希望を知らせてほしいという内容だった。
私は画面を見つめたまま、しばらく指を動かさなかった。
旅は嫌いではないが、進んで出かけるほどの行動力もない。締切がなければ、外出の理由を後回しにする性分だ。
だが、千葉県内であれば話は別だった。遠出をしなくても、それなりに書ける場所はある。無難な選択肢だと思った。
そのとき、パソコンの背後にある本棚に視線が逸れた。本と本の隙間に、薄いノートが一冊挟まっている。
あの日のノートだった。
スランプ気味だった頃、スマホをほとんど使わずに山梨県の桂川沿いを歩いた日の記録。
自然に触れたこと、迷ったこと、結局スマホに頼ってしまったこと。そして、それでも「良い旅だった」と書き残した、自分の字。
私はノートを取り出し、ページをめくった。そこには、評価も結論もない文章が並んでいた。
ただ、感じたことが、そのまま残されている。
気がつくと、私は返信メールを書いていた。
「山梨県のコラムを担当したいです。」
送信ボタンを押したあと、なぜその選択をしたのか、自分でもはっきりとは説明できなかった。
数日後、企画が正式に動き出した。他のライターがどんな切り口で書くのか、自然と気になり始める。
観光名所を網羅する文章だろうか。グルメ特化か、デートスポットか。いずれにしても、読者にとって「役に立つ」情報が並ぶはずだ。
不安になり、私はウェブで山梨県の観光情報を調べ始めた。
「山梨県、スペース、桂川っと。」
検索窓に文字を打ち込みながら、無意識に声が出る。わざわざ声に出してしまう時、感情が揺れている証拠なのが私の癖だ。
写真はどれも美しく、文章は丁寧で、レビューの星は高い位置で安定している。どれも間違いのない紹介だった。
だが、画面を眺めるほど、自分が書きたい理由から遠ざかっていく感覚があった。
私はノートを開き、紹介されていた名所や情報を一通り書き写した。
それから、ノートを閉じて、本棚に戻した。参考にはなった。だが、そこに答えはなかった。
私は原稿を書き始めた。
タイトルは『脱電子旅行記』。
観光案内ではなく、桂川を歩いた一日の記録。なぜそこへ行ったのか。何を見て、何に迷い、なぜスマホを使い、それでも何を感じたのか。
役に立つかどうかは考えなかった。おすすめできるかどうかも、意識しなかった。
ただ、自分の体験を、評価に変換しないまま文章にした。
文末には、高台から撮った新桂川橋梁の写真を一枚だけ添えた。構図が特別良いわけでもない。ただ、その場に立っていた証拠だった。
原稿を送り終えたあと、不思議と心は静かだった。採用されるかどうかは、重要ではないと思えた。
少なくとも、この文章は「誰かに選ばれるため」ではなく、「自分がそこにいたため」に書かれたものだった。
次に予定が空いたら、私はまたあの場所へ行くだろう。今度は、ノートに書き留めた名所も巡るかもしれない。あるいは、何も決めずに歩くかもしれない。
そこに正解はない。評価も、星も、順位もない。
ただ、自分が何を感じるかだけが残る。
旅とは、どこへ行くかではなく、何から一度降りるかを選ぶ行為なのだと、私はあのノートから教わった。




