
Presented by DesignParts

「バランスを取る」と聞くと、私たちは何となく「真ん中」を思い浮かべます。
右に偏りすぎず、左にも偏りすぎない。
多すぎず、少なすぎず。
極端にならず、ほどほどにする。
確かに、それも一つのバランスでしょう。
しかし、世の中を少し違った角度から眺めてみると、必ずしも「真ん中」がバランスの正解とは限らないことに気づきます。
そもそも、右があるから左があり、高い場所があるから低い場所があります。
好きな人がいるから嫌いな人がいて、賛成する人がいるから反対する人がいる。
もし片方だけをなくしてしまったら、もう片方の意味も変わってしまうのではないでしょうか。
自然も、人間の身体も、社会も、文明も、さまざまなものが互いに影響し合いながら、その時々のバランスを作っています。
そして面白いのは、そのバランスが誰か一人によって完璧に設計されているわけではないことです。
社会では、時代によって「普通」が変わります。
かつては奇妙だと思われていたものが、いつの間にか当たり前になることがあります。
逆に、当たり前だと思われていたものが、いつの間にか疑問視されることもあります。
その変化の中には、極端な価値観を持つ人たちや、「自分はこうしたい」と周囲に合わせない人たちの存在もあります。
もしかすると、社会を動かしているのは、全員が同じ方向を向くことではなく、それぞれが違う方向を向いていることなのかもしれません。
では、「多様性」とは本当は何なのでしょうか。
全員が同じように多様性を理解することでしょうか。
それとも、自分とは違う人が、自分とは違うまま存在できることでしょうか。
「わがまま」は、本当に悪いことなのでしょうか。
自分の好きなものを好きだと言い、自分のやりたいことを自分なりにやることまで、私たちは否定する必要があるのでしょうか。
この記事では、自然や日常生活の身近な例から、社会や人間の価値観まで、「バランス」という視点で考えてみます。
もしかすると、バランスとは「真ん中に立つこと」ではないのかもしれません。
むしろ、違う場所に立つ人たちが、それぞれの場所に立ったまま共存できること。
その中で社会そのものが揺れ動き、新しいバランスを探していくこと。
私は、そこに「物事のバランス」の本質があるのではないかと思っています。
少し極端な意見も含まれますが、ぜひ「自分ならどう考えるだろう」と思いながら読んでみてください。
私たちが暮らす社会や文明、日々触れているさまざまな概念や感情は、突き詰めて考えてみると、絶妙なバランスの上に成り立っています。
光と闇、暑さと寒さ、善と悪、高さと低さ。世の中にはさまざまな両極があります。そして、その両極のどちらか一方だけではなく、それぞれが存在しているからこそ、その間に無数の状態が生まれます。
ここでいう「バランス」とは、すべてが均等であるという意味ではありません。
すべてが50対50になっていることが、必ずしも良い状態とは限らないからです。大切なのは、異なるものがそれぞれ存在しながら、全体として物事が成立していることです。
例えば、私たちが当たり前のように息を吸い、食事をし、家の中で雨風をしのぎながら暮らせるのも、地球という惑星のさまざまな条件が組み合わさっているからです。
地球に重力があるから、私たちは地面に立つことができます。太陽から適度な距離にあるから、地球上には液体の水が存在できます。地形に高低差があるから、水は高い場所から低い場所へ流れ、川になります。
もし何か一つの条件が大きく変われば、私たちが今のような生活を送ることはできないでしょう。
人間の身体も同じです。
肉だけを食べ続けるのではなく、野菜やさまざまな食品を組み合わせることで栄養のバランスを取ります。パソコンやスマートフォンを使って効率よく仕事を進めた後には、身体を動かしたり、休息を取ったりすることで心身の状態を整えます。
仕事だけをしていても疲れてしまいますし、休んでばかりでも生活は成り立ちません。
人間関係も同じでしょう。
意見が食い違えば、ときには衝突します。しかし、自分の意見だけを押し通すのではなく、相手の考えを聞き、お互いが受け入れられる地点を探すことで、関係を続けることができます。
つまり、バランスとは「何も起こらない状態」ではありません。
むしろ、異なるものが存在し、ときにはぶつかり合いながら、それでも全体として成立している状態なのだと思います。
考えてみれば、私たちは「良いもの」だけで生きているわけではありません。
嬉しいことがあるから、悲しいこともあります。成功を知っているから、失敗を悔しいと思います。暑さを知っているから、涼しさを心地よいと感じます。光があるから、闇を認識することができます。
どちらか一方しか存在しなければ、もう一方の価値すら認識できません。
だからこそ、両極は対立するだけのものではなく、お互いの存在によって意味を持つものでもあるのでしょう。
もちろん、何でも中間にすれば良いというわけではありません。
悪いことと良いことの間を取れば、それだけで良い結果になるわけではありませんし、自分を犠牲にしてまで相手に合わせることが「バランス」でもありません。
大切なのは、異なるものが存在していることを前提として、その中で全体が成立する地点を探し続けることです。
そう考えると、人生そのものもバランスを探す作業なのかもしれません。
仕事と休息。自由と責任。自分の意思と他人への配慮。挑戦と安定。個人の幸福と社会との関わり。
私たちは、そのどちらか一方だけを選んで生きているわけではありません。その時々の状況に応じて、揺れ動きながら、自分なりのちょうどいい地点を探しています。
そして、その「ちょうどいい地点」は、誰にとっても同じではありません。
ある人にとって心地よいバランスが、別の人にとっては窮屈かもしれません。だからこそ、世の中にはさまざまな価値観が存在します。
バランスとは、全員を同じ場所に立たせることではないのです。
異なるものが存在し、それぞれが影響し合いながら、全体として成り立っていること。
私は、それこそが「バランス」という言葉の本当の意味なのではないかと思います。
そして、もし自然や人間の身体だけでなく、社会や文明そのものも同じようにバランスの上に成り立っているのだとしたら、そこにはどのような仕組みが働いているのでしょうか。
次の章では、私たちの社会に存在する「両極」に目を向けてみたいと思います。
前章では、バランスとは、すべてを均等にすることではなく、異なるものが存在しながら全体として成立している状態なのではないか、と考えました。
では、そもそも異なるものが存在しなければ、バランスは生まれるのでしょうか。
私は、そうは思いません。
高い場所があるから低い場所があり、明るい場所があるから暗い場所があります。強いものがあるから弱いものがあり、賛成する人がいるから反対する人もいます。
つまり、バランスを考えるためには、その両側にある「両極」が必要なのです。
もし世界中の人間が、全員まったく同じ価値観を持っていたらどうでしょう。
争いは減るかもしれません。しかし同時に、新しい考え方が生まれにくくなります。誰かが「こうしたほうがいい」と言ったとき、全員が何の疑問も持たずに賛成する社会では、その考えが間違っていたとしても、それを指摘する人がいません。
反対意見があるからこそ、自分の考えを見直すことができます。
異なる価値観があるからこそ、新しいものが生まれます。
だから私は、「両極があること」は、必ずしも社会にとって悪いことではないと思っています。
むしろ問題なのは、両極のどちらか一方を消してしまえば、社会が良くなると考えてしまうことです。
現代社会には、「こういう社会を目指そう」というさまざまなスローガンがあります。
「多様性」「SDGs」「格差是正」など、その代表的なものはいくつもあります。
どれも、それぞれの理念だけを見れば、目指している方向は理解できます。
異なる価値観を認め合うこと。
将来の世代も暮らせる社会をつくること。
生まれ育った環境によって生じる不公平を減らすこと。
こうした考え方そのものを否定する必要はないでしょう。
しかし、ここで一つ考えてみたいことがあります。
理想を掲げることと、その理想を実現することは、同じではありません。
さらに言えば、ある理想を実現しようとすることで、別の問題が生まれることもあります。
例えば、「すべての人が平等であるべきだ」という考え方があります。
これは非常に分かりやすい理想です。
しかし、人間はそもそも生まれ育った環境も、能力も、考え方も、身体的な特徴も、それぞれ異なります。
同じ結果を与えることが平等なのか、それとも同じ機会を与えることが平等なのか。
どこまでを公平と考えるのか。
その答えは、簡単には決まりません。
環境問題についても同じです。
持続可能な社会を目指すことは重要ですが、私たちの現在の生活そのものが、膨大なエネルギーや資源の消費によって成り立っています。
便利な生活を維持しながら環境負荷を減らす。
経済を成長させながら資源を守る。
人口が増え続ける中で、限られた資源をどう分配するのか。
一つの問題を解決すれば、別の場所に新しい問題が生まれることがあります。
だからこそ、社会というものは「正しい答え」を一つ決めて、それに全員を合わせれば完成するようなものではないのでしょう。
人間そのものが、完全ではないからです。
私たちは間違えます。
自分の利益を優先することもあります。感情的になることもあります。相手の立場を理解できないこともあります。
100%寛容な人間も、100%公平な人間も、100%正しい人間も、おそらく存在しません。
もし本当にそんな完全な人間がいたとしたら、その人はすでに世界中の人間より正しい判断ができることになります。
しかし、現実にはそんな人はいません。
だからこそ、人間がつくる社会にも完全な答えはありません。
「多様性」という言葉についても、私は同じことを感じます。
私が疑問に思うのは、多様性という理念そのものではありません。
むしろ、多様性を掲げながら、自分とは異なる考え方を受け入れられなくなることです。
本当の意味で多様性を認めるのであれば、自分とは違う考え方をする人も、そこに存在できなければなりません。
自分と同じ価値観を持つ人だけを集めて、「私たちは多様性を大切にしています」と言っても、それは少し不思議な話です。
多様性とは、自分が好きな違いだけを認めることではないからです。
むしろ、自分が理解できないものや、少し苦手だと感じるものまで含めて、「そういう人もいる」と認めることに難しさがあります。
もちろん、何でも許せばいいという話でもありません。
他人の自由を奪ったり、誰かを傷つけたりする行為まで「個性だから」と認める必要はありません。
ここにも、やはりバランスがあります。
自由には責任が伴います。
権利には、他者の権利との調整が必要です。
自分らしく生きることと、他人の生き方を尊重することも、両立させなければなりません。
つまり、社会に必要なのは「全員を一つの理想に合わせること」ではなく、異なる人間が存在したまま、それでも一緒に暮らせる地点を探し続けることなのではないでしょうか。
両極は、なくすべき敵ではありません。
賛成する人がいるから、反対する人がいる。
新しいものを求める人がいるから、昔からのものを守ろうとする人がいる。
変化を望む人がいるから、慎重になる人もいる。
そのどちらも存在するからこそ、社会は一方向に突き進むことなく、揺れながら進んでいくことができます。
そして面白いことに、人間が意図的にバランスを作ろうとしなくても、社会そのものが時間をかけて変化し、極端だったものを少しずつ動かしていくことがあります。
かつては非常識だったものが、いつの間にか普通になることがあります。
逆に、当たり前だと思われていたものが、時代の変化とともに疑問視されることもあります。
社会は、誰かが設計図を描いて、その通りに完成するものではありません。
さまざまな人間が、それぞれの価値観を持って生きることで、少しずつ形を変えていくものです。
だからこそ、両極が存在することには意味があります。
そして、その両極がぶつかり合い、混ざり合い、時には反発しながら、社会は新しいバランスを探していく。
もしかすると、社会のバランスとは、誰かが作るものではなく、人間がそれぞれ違うまま生きることで、自然に生まれてくるものなのかもしれません。
では実際に、社会の中で極端な価値観を持つ人たちは、どのような役割を果たしているのでしょうか。
次の章では、少し身近な例を取り上げながら、「物事は勝手にバランスを取ろうとする」という現象について考えてみたいと思います。
ここまで、物事には両極があり、その両極が存在するからこそバランスが生まれるという話をしてきました。
では、そのバランスは一体誰が作るのでしょうか。
誰かが「ここがちょうどいい」と決めて、そこへ全員を連れていくのでしょうか。
私は、必ずしもそうではないと思っています。
人間社会を長い時間で眺めていると、極端な方向へ振れたものに対して、それとは反対の動きが生まれ、やがて別の状態へ変化していくことがあります。
まるで物事そのものが、勝手にバランスを探し始めるように見えるのです。
その分かりやすい例の一つが、日本における「オタク」という言葉の変化ではないでしょうか。
1990年代の日本では、「オタク=キモい」というイメージがかなり強くありました。
アニメ、ゲーム、プラモデル、写真撮影、アイドルなどは、今ほど一般的な趣味ではありませんでした。
もちろん当時からこれらを楽しんでいる人はたくさんいました。
しかし、社会全体から見れば、それらは「サブカルチャー」と呼ばれ、一部の愛好家が楽しむ特殊な領域として扱われることが多かったと思います。
ところが、時代が変わりました。
今ではアニメやゲームは誰でも楽しむ娯楽になり、アイドル文化も広く社会に浸透しています。写真撮影もスマートフォンによって誰もが日常的に行うようになり、プラモデルやフィギュアを趣味にすることも、以前ほど特別なことではありません。
かつて「オタク」と呼ばれていた趣味の多くが、いつの間にか普通のものになったのです。
これは、社会の中にあった両極が、時間をかけて混ざり合った結果とも考えられます。
極端にその趣味を愛する人がいる。
その一方で、その趣味を嫌悪する人もいる。
そして、その間にいる大多数の人は、時代の変化を見ながら少しずつ態度を変えていく。
最初から全員が理解し合ったわけではありません。
むしろ、変化の途中にはかなり大きな軋轢があったはずです。
しかし、長い時間をかけて「好きでもいい」「興味がなくてもいい」という状態に近づいていった。
これが、社会におけるバランスの一つなのではないでしょうか。
もちろん、今でも特定の趣味や価値観を嫌う人はいます。
しかし、「それを好きな人が存在すること自体が許せない」という時代から、「自分は興味がないけれど、好きな人がいるのは別にいい」という時代へ変わったことには、大きな意味があります。
そして、この変化を考えるとき、私は社会の中にいる「極端な人」の存在が意外と重要なのではないかと思います。
分かりやすくするために、仮にある趣味を熱烈に愛する人が10%、その趣味を強く嫌う人が10%、そして残りの80%がどちらでもない人たちだったとします。
この数字はあくまで説明のための例です。
この場合、社会を大きく動かしているのは、両端にいる20%の人たちです。
熱烈に好きな人がいるから、その趣味は文化として残ります。
強く嫌う人がいるからこそ、社会の側から「なぜそこまで嫌われるのか」という反応も生まれます。
そして、その両極の間にいる80%の人たちは、時代の流れによって少しずつ動いていきます。
最初は「そんなものは理解できない」と思っていた人が、ある日テレビやインターネットで触れて、少し興味を持つかもしれません。
逆に、流行しているからという理由だけで好きだった人が、流行が終われば別のものへ移っていくかもしれません。
つまり、大多数の人間は意外と流動的です。
社会の空気が変われば、人々の認識も変わります。
そして、その流動性があるからこそ、社会は固定されたままではなく、少しずつ形を変えていくのでしょう。
例えば、今では「女性だけど鉄道写真を撮っています」「男性だけどネイルをしています」と言われても、それだけで特別驚く人は以前より少なくなりました。
しかし、こうした「〇〇だけど」という表現そのものを見てみると、そこには過去の社会が作った「本来ならこうあるべき」という固定観念が残っています。
女性ならこう、男性ならこう。
大人ならこう、子どもならこう。
会社員ならこう、学生ならこう。
オタクならこう、一般人ならこう。
社会には、知らないうちにたくさんの「こうあるべき」が存在しています。
ところが、人間は必ずしもその通りには生きません。
「男だけどネイルが好き」という人がいてもいい。
「女だけど鉄道が好き」という人がいてもいい。
「大人だけどゲームが好き」でもいい。
「みんなが好きなものを自分は好きではない」でもいい。
そうした人が少しずつ増えていくことで、それまで存在していた「普通」の境界線そのものが動いていきます。
そして、気がつけば、以前は極端だったものが普通になっています。
私は、これこそ社会が自然にバランスを取り始める現象の一つだと思っています。
だからといって、すべてのものが必ず受け入れられるわけではありません。
時代が変われば、新しい対立も生まれます。
昔は問題にならなかったことが問題になったり、逆に昔は問題だったことが気にされなくなったりもします。
社会は、一度バランスを取ったらそこで止まるわけではありません。
常に揺れています。
右へ行き過ぎれば左へ戻り、左へ行き過ぎれば右へ動く。
その繰り返しの中で、その時代なりのバランスが生まれていくのです。
だから私は、社会を無理に一つの方向へ動かそうとすることには、少し慎重であるべきだと思っています。
誰かが「これが正しい」と決め、それ以外を間違いとして排除してしまえば、両極の片方を消すことになります。
しかし、片方を消したからといって、社会が安定するとは限りません。
むしろ、反対側へ振れるための力まで失ってしまう可能性があります。
ここで、少し「わがまま」という言葉について考えてみたいと思います。
一般的に「わがまま」は、あまり良い意味では使われません。
自分のことばかり考えて、周囲の都合を無視する人を「わがまま」と呼びます。
しかし、私はここで、少し違った意味でこの言葉を考えてみたいのです。
「わがまま」という言葉を漢字で書けば「我が儘」。
つまり、「自分のまま」ということでもあります。
もちろん、他人を傷つけたり、他人の自由を奪ったりすることまで許されるわけではありません。
しかし、自分が好きなものを好きだと言うこと。
自分がやりたいことを自分なりにやること。
周囲と違っていても、自分の価値観を簡単には捨てないこと。
そういう意味での「わがまま」は、人間が自分自身であり続けるために必要なものなのではないでしょうか。
全員が周囲に合わせて、誰も「自分はこう思う」と言わなくなったら、社会は一見平和になるかもしれません。
しかし、それでは新しいものも生まれません。
「私はこれが好きだ」
「私はこうしたい」
「みんながそう言っているけれど、私は違うと思う」
そうやって自分の意思を持つ人がいるからこそ、社会には新しい価値観が生まれます。
そして、その価値観に反対する人も現れる。
その反対意見を見て、また別の人が考える。
そうやって、社会は揺れながら少しずつ形を変えていきます。
つまり、両極にいる人たちは、社会を分断しているだけではないのです。
極端な考えを持つ人がいるからこそ、その間にいる人たちが考え、動き、社会全体の位置も変わっていく。
そう考えると、「自分とは違う人が存在する」ということは、必ずしも自分にとって脅威ではありません。
むしろ、自分とは違う人がいるからこそ、自分が何者なのかを知ることができます。
自分の好きなものと、相手の好きなものが違っていてもいい。
自分が撮り鉄をしていて、相手がまったく鉄道に興味がなくてもいい。
自分が喫煙者で、相手が煙草を嫌っていてもいい。
自分が会社員として働く一方で、別の人が違う生き方を選んでもいい。
大切なのは、相手を自分と同じにすることではありません。
自分も自分のままでいて、相手も相手のままでいられることです。
それぞれが「自分のまま」で存在しながら、お互いの領域を侵さずに共存できる。
私は、そこに本当の意味での「多様性」があるのではないかと思います。
多様性とは、全員を同じ価値観に導くことではありません。
違う価値観を持つ人が、違うまま存在できることです。
そして、その違いがあるからこそ、社会は一つの方向へ固まることなく、常に揺れ動き、新しいバランスを探していく。
物事は、誰かが完璧に設計しなくても、さまざまな人間の意思や行動がぶつかり合う中で、少しずつ形を変えていきます。
もしかすると、私たちが「社会を良くしよう」と考えるときに必要なのは、全員を同じ方向へ動かすことではないのかもしれません。
それぞれが自分の「わがまま」を持ちながら、それでも他人の「わがまま」も存在できる余地を残しておくこと。
その余地がある限り、社会は極端に固まることなく、自然に揺れながら次のバランスを探していくのではないでしょうか。
ここまで、物事はさまざまな条件の上で成り立ち、両極が存在するからこそバランスが生まれ、社会もまた、異なる価値観がぶつかり合う中で少しずつ形を変えていくのではないか、という話をしてきました。
ここまで考えてみると、私は一つのことに気づきます。
それは、「バランスを取る」という言葉から、私たちは少し違ったイメージを持っているのではないかということです。
バランスという言葉を聞くと、何となく「真ん中」を思い浮かべます。
右と左があれば、その中間。
賛成と反対があれば、その中間。
多すぎるものと少なすぎるものがあれば、その中間。
しかし、本当にそれがバランスなのでしょうか。
私は、そうではないと思うようになりました。
バランスとは、必ずしも真ん中に立つことではありません。
むしろ、自分が立っている場所を自分で選び、その場所に立ちながら、他人が別の場所に立つことも認められる状態こそが、本当のバランスなのではないでしょうか。
例えば、私は鉄道写真を撮ります。
いわゆる「撮り鉄」と呼ばれる趣味です。
人によっては、鉄道にそれほど興味がないでしょうし、鉄道写真を撮ることを理解できない人もいるでしょう。
しかし、だからといって、私が鉄道写真を撮ることをやめる必要はありません。
逆に、鉄道に興味がない人に「もっと鉄道を好きになるべきだ」と押しつける必要もありません。
私は私の好きなものを楽しみ、相手は相手の好きなものを楽しめばいい。
それだけのことです。
私は煙草も吸います。
もちろん、煙草を嫌う人がいることも理解しています。
だからといって、私が煙草を吸うことと、相手が煙草を嫌うことを、どちらか一方が間違っているという話にする必要はありません。
ただし、ここには一つ大切な条件があります。
自分の自由は、他人の自由を奪わない範囲で守られるべきだということです。
煙草を吸う自由があるからといって、煙草を吸いたくない人のいる場所で自由に煙草を吸っていいわけではありません。
自分らしく生きる自由があるからといって、他人にも自分と同じ生き方を強制していいわけでもありません。
つまり、「自分のままでいること」と「他人もその人のままでいられること」は、両立できるのです。
そして、この両立こそが、私の考えるバランスです。
私たちは、ときどき「みんなが同じ考え方になれば、争いがなくなる」と考えてしまいます。
しかし、全員が同じ価値観になることは、本当に幸せなのでしょうか。
全員が同じ仕事をしたいと思い、全員が同じ趣味を持ち、全員が同じ生き方を望み、全員が同じ意見を言う。
そこには、確かに大きな衝突は起きないかもしれません。
しかし同時に、新しいものが生まれる余地も少なくなります。
「私は違うと思う」と言う人がいなければ、間違いを見つけることもできません。
「こんなことをやってみたい」と言う人がいなければ、新しい文化も生まれません。
「みんなとは違うけれど、私はこれが好きだ」と言う人がいるからこそ、それまで誰にも知られていなかった価値が社会に現れることがあります。
だから私は、「わがまま」を完全になくしてしまう社会が良い社会だとは思いません。
もちろん、他人を傷つけるわがままや、他人の権利を奪うわがままは別の話です。
しかし、自分の好きなものを好きだと言うこと。
自分の人生でやりたいことを選ぶこと。
周囲とは違う考え方を持つこと。
みんなが選ばない道を選ぶこと。
そうした「自分のまま」でいるためのわがまままで否定してしまえば、人間はどんどん均質になってしまいます。
そして、社会が均質になればなるほど、表面的には穏やかに見えても、内側には閉塞感が生まれるのではないでしょうか。
違いがあるから、考えることができます。
違う人がいるから、自分自身について考えることができます。
自分とは正反対の人がいるからこそ、自分が何を大切にしているのかにも気づくことができます。
だから、両極は必ずしも敵ではありません。
むしろ、両極が存在しているからこそ、その間に無数の生き方が生まれます。
そして、その中から人は、自分にとってのバランスを探していく。
人生においても、それは同じなのだと思います。
仕事を頑張りたい人もいれば、仕事より家庭を大切にしたい人もいる。
都会で暮らしたい人もいれば、自然の中で暮らしたい人もいる。
新しいものを追いかけたい人もいれば、昔からあるものを大切にしたい人もいる。
大勢の人と関わりたい人もいれば、一人の時間を大切にしたい人もいる。
どれが正解なのかを決める必要はありません。
その人にとって、その生き方が無理なく続けられるのであれば、それがその人にとってのバランスなのかもしれません。
そして、自分にとってのバランスが、他人にとってのバランスと同じである必要もありません。
ここが、私はとても大切なところだと思っています。
「みんな違って、みんないい」という言葉があります。
私は、この言葉も単純に「違いを認めましょう」という意味だけではなく、「違いがある状態そのものを社会の一部として受け入れよう」という意味で考えたいと思います。
誰かが極端に好きなものを持っていてもいい。
誰かがそれを嫌っていてもいい。
その間で興味を持つ人がいてもいい。
時代によって、その割合が変わってもいい。
社会が右へ動くこともあれば、左へ動くこともある。
その揺れそのものが、社会のバランスなのです。
だから、「正しい社会」を一つだけ決めることには、私は少し違和感があります。
社会は完成品ではありません。
時代が変われば価値観も変わります。
技術が変われば生活も変わります。
人間が変われば、社会も変わります。
昨日まで普通だったことが、今日は普通ではなくなることもあります。
逆に、昨日まで奇妙だと思われていたことが、何年も経てば当たり前になることもあります。
そうやって社会は、常に揺れながら変化していくのでしょう。
だからこそ、私たちが目指すべきなのは、「全員を真ん中に立たせること」ではないのだと思います。
右にいる人もいていい。
左にいる人もいていい。
その間にいる人もいていい。
そして、それぞれが自分の場所に立ったまま、相手の存在を認められること。
それができる社会には、変化する余地があります。
新しいものが生まれる余地があります。
間違いを修正する余地があります。
そして何より、人間が人間らしく生きる余地があります。
私は、これが「多様性」という言葉が本当に目指すべき場所なのではないかと思います。
多様性とは、全員を同じ価値観にすることではありません。
全員が同じように「多様性」を叫ぶことでもありません。
自分とは違う人が、自分とは違うまま存在することを認めること。
そして、自分自身もまた、誰かと違う自分のままでいること。
その両方ができて初めて、多様性は成立するのではないでしょうか。
私たちは、誰もが不完全です。
だからこそ、誰か一人が「これが正解だ」と決める必要もありません。
自分なりに考え、自分なりに選び、ときには間違えながら、それでも他人が別の選択をする余地を残しておく。
その積み重ねが、社会全体のバランスを作っていくのだと思います。
バランスとは、真ん中に立つことではありません。
右にも左にも、前にも後ろにも、それぞれの場所に立つ人がいる。
そして、その違いを抱えたまま、一緒に生きていける。
そんな状態こそが、本当の意味でのバランスなのではないでしょうか。
結局のところ、私たちは「正しい場所」を探して生きているのではなく、「自分にとって納得できる場所」を探しながら生きているのかもしれません。
その場所は、人によって違います。
だからこそ、世の中にはさまざまな人間がいていい。
自分の「わがまま」を持っていていい。
そして、隣にいる人にも、その人なりの「わがまま」があることを認めればいい。
互いに違うまま存在できる余白がある限り、社会はきっと、また新しいバランスを探していく。
私は、そんな社会のほうが、完璧に整えられた社会よりも、ずっと人間らしいのではないかと思います。