オレンジの終わりに – HLHS0025

人々は沈む太陽に心を揺らす
港町に小さな夏が訪れていた。潮風が歩道のベンチに座る二人の髪をそっと撫でていく。
真理(まり)は、目の前の海に広がるオレンジ色の景色を見つめながら、隣の席に座る智也(ともや)の沈黙が、少しだけ気になっていた。
「…なんか、急に静かになったね」
そう声をかけると、智也は微笑みながら首を振った。
「ううん。ただ、なんていうか、言葉いらないなって思っただけ」
遠くでカモメが鳴いた。港の向こうに太陽が沈みかけていて、水面にはゆらゆらと揺れる光の道が伸びていた。
二人は東京の大学に通う同級生で、付き合い始めて一年になる。今回の旅は、期末試験が終わったご褒美だった。あてもなく電車に乗り、ふと降り立ったのがこの港町。観光案内にあった「夕景スポット」に引き寄せられるように来てみたのだが、その美しさは想像を遥かに超えていた。
「ねえ、あの人…毎日来てるのかな」
真理が指差した先には、少し離れた防波堤に立つ一人の男の姿があった。背中越しに夕陽を浴び、動かずに立ち尽くしている。まるでこの風景の一部のようだった。
「俺もさ、昔よく父さんと釣りに行ってた港があった。…あの人の後ろ姿見てたら、それ思い出した」
「うん。なんか、私も…子どものころ、祖母の家から見た夕陽を思い出した」
不思議だった。旅先でふと訪れただけの場所なのに、まるで記憶の奥にそっと触れられたような感覚。何でもない風景が、どうしてこんなにも感情を呼び起こすのだろう。
智也がつぶやいた。
「夕陽って、今日の終わりだけど、ちゃんとやったって感じがするんだよな。別に完璧じゃなくても、今日も生きたって」
真理はその言葉に、小さくうなずいた。たぶん、誰かと一緒にその時間を見つめることで、人生のかけらを確かめ合っているのかもしれない。
「…ずっとこうしていられたらいいのにね」
「ずっとは無理だけど、忘れたくないね、この景色も、この空気も」
日が完全に沈み、オレンジ色は薄紫に変わっていく。その静けさの中で、二人はそっと手をつないだ。会話は少なかったけれど、心の深いところで確かなものが通い合っていた。
帰り道、ふと真理が振り返ると、防波堤の男はもういなかった。けれど彼がいた場所には、風と波の音が残っていて、まるで時間そのものが記憶になったようだった。
真理のまなざし
オレンジ色の海を見つめながら、真理は心の中で、波のように思いが揺れていた。
(私たち、ちゃんと歩けてるのかな)
智也と付き合ってもうすぐ一年。もちろん仲はいい。ケンカもほとんどしない。けれど、最近どこか流れているだけのような気がしていた。
ふたりで過ごす時間は楽しい。でも、未来の話になると、どちらともなく話題をそらしてしまう。将来の進路、仕事、離れて暮らすかもしれない不安。それを口にしたら、目の前の穏やかな関係が壊れてしまいそうで。
(このままでいいのかな、それとも…)
そんな迷いを抱えたまま旅に出た。無計画に。もしかしたら、この旅のどこかで、何かがはっきりする気がしていた。
けれど、夕陽の下で隣にいる智也の横顔は、何も変わっていなかった。いや、変わらないことそのものが、少しだけ眩しかった。
(夕陽って、終わりのようで、始まりなのかもしれない)
一日の終わりに、誰かと一緒にいられる。たったそれだけのことが、思っていた以上に心に沁みた。
真理は自分の左手を、そっと智也の右手の近くへ寄せてみた。言葉はなかった。けれど、次の瞬間、自然とその手が重なった。
言葉では伝えきれない想いを、彼が少しだけ受け取ってくれたような気がして、真理は小さく目を伏せた。
智也のまなざし
沈む太陽を見つめながら、智也はどこかに置き忘れていた感情を思い出していた。
(父さん、あのとき何を思ってたのかな)
彼の父は、無口な人だった。家族旅行も少なくて、言葉もほとんど交わさなかった。けれど、小学校の頃に一度だけ二人で釣りに行ったことがある。
無言の時間だった。魚も釣れなかった。でも、不思議と記憶に残っている。
その時の夕陽に、今日のこの風景はよく似ていた。海が、空が、まるで時間のフィルムを巻き戻すように、過去を見せてくる。
(あの沈黙は、もしかして父なりの優しさだったのかもしれない)
隣を見ると、真理が黙って海を見つめていた。どこか遠くを見ているような、でも少しだけ不安そうな顔だった。
(本当は、俺のことどう思ってるんだろう)
そんな言葉が胸に浮かぶ。でも、それを聞くのが少し怖かった。今の関係が壊れるのが怖くて、「未来」や「進路」の話からつい逃げてしまっていた。
でも今、海の前に立って、こんなに何もない場所で、彼女が隣にいることが、ただありがたかった。
ふと、真理の手がすぐ隣にあることに気づいた。少しだけ手を動かし、重ねた。その小さな動作が、なぜか胸にじんわりと沁みた。
何も言わなくていい。ただ、これからもこうして、日が沈むたびに隣にいてくれたら。
彼はそう願っていた。
静かな時間の中で
二人は手をつないだまま、沈んでいく太陽を見送った。波は寄せては返し、港の空気が夜へと移ろっていく。
「また来ようね、この町」
真理が言った。
「うん。今度はもう少し、ちゃんと準備して」
智也が笑った。
何も決まっていない。先のこともわからない。でも、確かに感じるものがあった。言葉よりも、景色よりも、夕陽よりも静かで確かなものが。
それは、お互いの「心」だった。