灰色の都市の枝の先 – HLHS0024

大理石の投影
冬の風がアスファルトを這い、ビルの谷間で唸っていた。信号が青になり、歩行者たちはスマートフォンを見たまま機械のように歩き出す。
佳乃(よしの)はその人波の中で、足元の水たまりに一瞬立ち止まった。
黒く濁った水面に、裸の木の枝と自分の顔が映っていた。寒空の下、コートのポケットに手を突っ込んだまま、それをじっと見つめる。
「色が、ないな」
思わず小さくつぶやいた。
灰色の空。くすんだコンクリート。寒々しい人波。笑っている顔も、泣いている顔も、見つからない。みんな早くどこかに行きたがっているようだった。
佳乃は24歳の事務職。毎日、朝9時から夕方6時までパソコンに向かい、丁寧にメールを書き、誰かが作ったフォーマットに数字を埋める。効率的で、無駄がなくて、たぶん「ちゃんとしている」生活。
だけど、ときどきふと思うのだ。この社会で、私は誰かに「必要とされて」いるのだろうか、と。
その夜、仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、佳乃は不思議な男の子に出会った。
彼はレジ横に置かれた輪ゴムの束をじっと見つめていた。痩せた体、乱れた髪、そして妙に透明な目。レジの店員が声をかけても反応がなく、ただ風景の一部みたいにそこに立っていた。
「……寒くないの?」と佳乃は思わず声をかけた。
男の子はゆっくりと彼女を見上げ、「寒いよ」と答えた。
「でも、寒さって、生きてるって感じするから。嫌いじゃない」
変な子だな、と思った。だがその言葉が、心の奥で妙に引っかかった。佳乃もまた、寒さの中で何かを感じたかったのかもしれない。
「名前、なんていうの?」
「名乗るほどの者じゃないけど、まあ、ユウって呼ばれてる」
そんな時代がかった口調に、佳乃は少し笑ってしまった。
それから数日、佳乃はユウにたびたび会うようになった。ビルの隙間の空き地、公園のベンチ、水たまりのそば。どこか寂しげな場所で、彼はいつもぽつんと佇んでいた。
「君、学校とかは?」
「行ってない。誰も、別に俺がいなくても困らないから」
それを聞いて、佳乃は思わず言ってしまった。
「私も、同じかも」
ユウは首をかしげた。
「君は仕事してるじゃん。大人って、誰かに必要とされてるもんじゃないの?」
「それがね……。うまく言えないけど、効率とか、数字とか、そういうののために存在してる感じ。代わりはいくらでもいる。私自身じゃなくてもいいって思うと、すごく空っぽになるんだ」
ユウは黙って、ポケットからビー玉を取り出した。光沢のない、灰色のビー玉だった。
「これ、好きなんだ」
「……なんで?」
「何も映らないところが、俺に似てる気がして。透明じゃなくて、くすんでて、でも手に持ってると、ちょっとだけあったかい」
その言葉を聞いた瞬間、佳乃の胸に何かが灯った。
この子の中には、誰にも気づかれないだけで、確かな感受性がある。枝の先に残った一枚の葉を見つけられる目がある。
そしてその目は、自分にも向けられていた。
ある日、ユウはいなくなった。
どこを探しても見つからず、空き地のベンチには、灰色のビー玉がひとつ置かれていた。
佳乃はそのビー玉をポケットに入れ、駅までの帰り道、水たまりの前で立ち止まった。枝の影が揺れ、彼女の顔がぼんやりと映る。
寒い。
でも、その寒さが「生きている」ことを思い出させてくれる。
スマホの画面から目を離し、彼女はすれ違う人々の顔を見た。疲れた顔。無表情な顔。その中に、同じように空っぽさを抱えている誰かがいるかもしれない。
「必要とされたい」
それは、弱さではなく、誰かを必要とするための入り口なのかもしれない。
ポケットの中で、ビー玉が静かに揺れた。