HiStory

見返りのない光 – HLHS0023

見返りのない光

満月航空

PhotoAC[31533332]

夜のコンビニ前。11月の空気は乾いて冷たく、街の灯りが静かにしみ込んでいた。

尚人は缶コーヒーを片手にベンチに腰かけた。今日も何事もなく終わった一日。定時に終わって、コンビニで缶コーヒーを買う。それが彼にとって、小さな「自分への報酬」だった。

ふと隣のベンチを見ると、若い女性が一人、座っていた。スマホの画面が顔を照らし、唇が微かに動いている。

「はい、スパチャありがと〜♡」

女性の声が、空気に溶けるようにもれる。

尚人はその声に聞き覚えがあった。会社の若い連中が話題にしていた、配信者の名前が脳裏をよぎる。“あかり”――確か、そんな名だった。実物を間近で見るのは初めてだが、確かに彼女だと直感した。

画面の中の彼女は、笑っていた。華やかで、軽やかで、隙がなくて。だが、実際の彼女は違った。笑顔の後の、疲れ切ったまぶた。深く吐かれた息。

尚人は何も言わず、缶コーヒーの温かさに指を沈めた。

ちょうど配信を終えたのだろうか。そのとき、ふいに彼女が声をかけてきた。

「……疲れてますか?」

尚人は驚いた。目が合った。けれど、あかりの視線はどこか浮いていた。人を見るようで、人を見ていない目。演技を終えた後の、楽屋裏のような顔だった。

「うん、まあ……仕事終わりで、ちょっとだけ」

「……私も。疲れました。笑ってるだけなんだけどね、疲れるんです。不思議でしょう?」

彼女がさっきまで配信に使っていたスマホを握る手は、やや震えていた。

「見てくる人が増えれば増えるほど、自分が“何者か”じゃなきゃいけなくなる。言葉も仕草も、全部計算して……やらなきゃ、数字が落ちるから。お金、入ってこなくなるから。だから笑う。愛想を売る。若さを売る。体は売ってないけど……同じようなもんかなって、最近思います」

尚人は黙っていた。彼の言葉はいつも遅い。人と話すことに慣れていないわけではない。ただ、言葉より相手の温度を感じる癖があるだけだった。

彼女の言葉には、わずかな苛立ちと、それ以上に深い虚しさが混ざっていた。

「……わかる気がするよ」と、ようやく尚人が口を開いた。「僕も、価値がないって思われる立場だから。年収も低いし、彼女もいないし。恋愛なんて、条件を満たさないと相手にされない。投資に値しないって、そんな感じで切られる」

「え、そんなことあるんですか? 優しそうなのに」

あかりのその言葉には、ほんの少しだけ“素”が混じっていた。

演技ではない声。驚きと戸惑いと、まっすぐな感情。

「……優しいだけじゃ、残らないんだよ。市場には」

「市場、か……、実際そうなんですよ。若い女の子は売れる。でも、それはいつか終わるんです。そうなったとき、誰かがそばにいてくれる保証なんてない」

彼女の言葉は鋭かった。けれど、それは自分自身を刺す刃でもあった。

尚人は、カイロを取り出して差し出した。

「これ。使う? もらいものだけど、余ってて」

あかりはそれを見て、一瞬動きを止めた。

彼女にとって、それはあまりに『見返りのなさすぎる行動』だった。

「……もらっていいんですか?」

「うん。あったかいほうがいいから」

あかりは受け取った。指先でそっと温度を確かめ、唇を引き結ぶ。

「……ありがとうございます。なんか、泣きそうです。こういうの、忘れてました」

尚人は答えなかった。ただ、少し笑った。

「でも、こうやって知らない人に親切にされると、逆に不安になりますね。裏があるんじゃないかって」

「……そういうふうに思わされてるんだと思うよ。損得なしで人が何かをするって、社会がもう信じさせてくれないから」

しばらく、風が通り過ぎた。髪が揺れ、カイロの温度が二人の間に残った。

あかりはスマホをバッグにしまった。

「今日は、もう配信やめます。……もしよければ、少しだけ話しませんか。何も売らず、何も買わずに。名前も知らなくていいから、ただ話したいです」

尚人は、小さくうなずいた。

「……うん。僕も、誰かとただ話すの、久しぶりかもしれない」

二人は肩を並べて、街灯の下に座った。

コンビニのガラス戸が開いても、スマホが鳴っても、二人は顔を上げなかった。

世界がすこしだけ静かになった気がした。

それは、きっと『見返りのない光』が灯った瞬間だったのだろう。

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